
眠れないほどの寂寞と、眠りたくないほどの赤熱と
俺には創作やインターネットを通じた気兼ねない友人関係というものがない。インターネットに入り浸って十五年近く、創作に片足を突っ込んだのも同様というくらいの期間は経っており、その間会話の弾む時期もあったしオフ会もあったし即売会での挨拶も未だに存在している。しかし自分から足を運んでこんにちはというほどの仲でさえもはや存在していない。いいや、何人かは会釈の一つでもすればきっとまともな応対をしてくれるはずだ。それを俺はみずから行わない、然るに会話がうまく発生しないし、声をかけられても弾むほどの話題を持ち合わせていない、ようはこちらの問題だと思っている。それを寂しいと思うことも、情けないと思うこともあるが、それでもこの孤島での生活のほうが居心地がいいと今のところ感じてしまう。自覚できるほどに誤った言葉や対応をしたときの後悔や羞恥、それによって思考が埋め尽くされるあの感覚に比べれば、対人関係においては波風立てないほうがよほど内心の安定は図れるし、文字を書く筆致も捗るものだ。正しいことではない。しかし俺にとって効果的なことではある。この不精の性は。
インターネットに限らず、近頃は友人関係も月日を追うごとに希薄になっている。旧知の友人たちは各々の興味と多忙に向き合っているし、職場で会話の弾む人たちとははじめあった休日ぐるみの付き合いも今やない。仕事があれば、互いに共有する目的があればそれについて話せるが、自己しか持っていない関心事を他者へ見せたり、他者が夢中になっていることに一定の関心は示せてもそれ以上には踏み込めない。SNSで連絡先を共有している既存の友人さえも、もはや自分からは話しかけることは皆無であり、然るに声をかけられることも極小だった。その極小の機会でさえ、互いに深く共鳴すること、日常を伴にするだけのことを見出すことは難しい。もとより、最早、学生の頃とは違ってしまったのだ。気軽に会いに行ける距離も、時間もなく、ともすれば理由を作らなければ会話さえ生まれない。なのに会わない理由ばかりが息をするように生成されていく。家族、仕事、恋人、体調。熱を上げて言葉や時間を交わし合う日々は、もう過去のものなのだ。それは簡単には戻らない。かつてのただの日常が、今やハレの日だった。人生がつまらなくなるのは当然だと思えた。少なくとも、俺の人生はどう映るだろう。俺にとっては今でさえかけがえのないものだが、同時に、なにか致命的に、周囲の人間ならば体験しているであろう、現代人に生まれたならばという出来事を、何十個も見過ごしていると思う。それを人が見たとき、しょうもないとか、情けないとか、救いたいとか、思うのかもしれない。可能なら俺は、俺自身の中にもあるそんな心配の声に、うるせえよと言ってやりたい。言いたくて仕方がない。だから、独りになっていくのだろうな。
然るに俺はもはや誰かに宛てた言葉を、面と向かって伝えることさえ、不器用を越えて挑みもしないものだ。しかし、まるで同じように、孤独と向き合っている人には、どうか孤独に踏みとどまってくれないか、という声を届けたくはなるのだ。孤独を選び、寂しさに喘いででもやりたかったこととは何なのか。孤独しか選べなくしたその境遇は何なのか。置き去りにされたことへの寂しさが耐え難いのか。それでもなお踏みとどまりたいと願っているのなら、どうかその孤独の先までも突き抜けていけよと、尊大な態度かもしれないが言いたい。その果てに寂しさを埋める穴はなくとも、だとしても欲しいもの、得たいもの、守りたいものがあったのだろう。なら、それ以外の物事に過剰に足を引っ張られないで、行けよ。土台、孤独を選べて、大事なものを諦めなくてよかった奴らなんて、贅沢で、幸運で、だからこそ貫くのが使命みたいなもんだと、俺は思う。

その後を追えばよかったのかもという迷いを抱えて、
同時にここに踏みとどまりたいという想いはあって、
つまりは、大手を振った大団円の、
納得ばかりの大正解の選択など、
殆ど有り得ないのだと思う。