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依存症の話(と、お願い)

 あまりに当然の話だが、人間には休息が必要である。特定の仕事や作業を24時間続けることは物理的にできない。人間の構造上、できない。
 24時間というと極端だが、体力や眠気だけでなく、集中力という観点を持ち出すと、連続で作業できるのはもって2時間と言われており、状況次第では数分しか集中を維持できず、すぐに作業を放り出してしまう人もいる。
 集中して長い間作業を続けたいのに、ほとんど無意識的にSNSのタイムラインや更新を追ってしまって、気づけば数十分、ひどいときは数時間、最悪は自分の使える時間すべてを浪費しきるような人もいる。強い自制心で、50分は連続して作業をしよう、そして10分休憩するんだ、と決めてかかる場合もある。大抵、このやり方は多くの人で効果を奏しているようにおれは思うけれど……その方法すらも通用せず、自分で決めた時間を超え、休息の範疇を超えて時間を浪費してしまう人もいる。そうしてひどく後悔したり、自分を責めたりする。取り組もうとしていた物事について、自分は才能や能力が無いのだ、と結論をつけ諦めてしまう人もいる。

 この問題で苦しむのは、傍からみれば愚かなことに映るかもしれない。二者択一と考えれば、話は簡単に片がつくから。
 作業を続けることが大切なら、過度な休憩を取らなければいい。作業を続けることで一定の成果を得たいのなら、得るまで作業を続ければいい。
 もしそれができないなら、その作業はきみにとってそこまでやりたいことではないのだろうから、潔く辞めて、他にやるべきことをすればいい。できないことややりたくないことを無理に続ける必要があるのか? そこで足搔いてる時間を別の何かに注いだほうが、得るものも与えるものも大きいのではないか?

 おれはこういった逡巡を、これまでおそらく数百回は繰り返してきた。既に人生は27年目に突入したのだけど……最近になって、これは病状として対処したほうがいいのかもしれない、と思い始めた。医者にかかる習慣が無くて、正式に診断をもらえているわけではないけれど……長期にわたって、散々に苦しんでいて、やるべきことの進行に大きな支障をきたしている。だから、この問題に対するアプローチを変えるためにも、新たな見方として、病状、と扱うことにしたい。
 前置きとして、おれは依存対象そのものを悪とは捉えていない。それが人の生活に彩りを与え豊かにし、それによって生まれる縁があることも、それを生業にすることで生活しているひとがいることも了解している。つまりは、世間一般には尊重されるべき物事で、諸悪の権化として、廃絶すべきものとして扱うべきではない。ただ、その認識が、おれをさらに苦しめているのかもしれない。
 絶対悪が存在しないのなら、そいつとの距離をうまく保てない、自分自身を責めることしか所在がない。


 おれはおそらくビデオゲーム依存症だ。物心ついた頃にはゲームボーイアドバンスとプレイステーションを買い与えられていて、様々なタイトルを数百時間、ときには1000時間を超えるほど遊んできた。しかしゲームのプレイ時間くらいなら、ネットの海を探せばいくらでも自分を上回る人がいて……というのは、この問題の本質ではない。
 空き時間ができれば、延々とそれをやっているのだ。
 中学生くらいまでは、家の言いつけに従って夜23時頃には寝ていたけれど、高校受験で遠方の塾に通い始めて、帰宅が終電ごろの生活になったあと……眠る時間の制限がなくなって、朝までゲームをすることがぽつぽつと発生した。明らかに次の日の生活に支障をきたしていて、学校の授業でも当然のように居眠りをするようになり、高校に入ってからの成績は芳しくなかった。
 これくらいならモラトリアムとして、落伍した大学生的な生活として、いくらでもあるものかもしれない。しかしおれは、社会人になっても、あるとき急に、この性分を抑えられなくなることがあった。
 そしてこの問題は、仕事ではなくて、プライベートで顕著に発生している。

 おれはここ数ヶ月、休日のほとんどの時間をゲームに費やしている。直近でいうならば、8月30日〜9月1日は、睡眠と食事と風呂以外の時間を、すべてある対人ゲームに費やした。プレイ時間は30時間近くにのぼっただろう。タチの悪いのは、二つあって、一つはほぼ毎週こんなことを繰り返していることである。もう一つは、8月30日はなけなしの有給消化日で三連休にしているというのに、そうやって作った時間をすべて一タイトルのプレイ時間に費やしているということだ。
 三連休を作ってまで本当にしたかったことは何か?
 原稿をしたかった。創作をしたかったのだ。締切が複数あるし、いい作品にしたい。そのためには時間と思考と挑戦が必要だった。だのに、運良く得られたはずの時間のすべてを蔑ろにして、おれは30時間のプレイ時間と体験を得たのだ。こんなことを、週休一日だろうが二日だろうが延々と繰り返しているのだ。しかも、ゲームができないときは、そのタイトルのプレイ動画を延々と周回している。晩御飯を食べるときも、風呂上がりも、眠る前も、ぜんぶ、そのタイトルの動画を視聴しているのだ。
 おれが週に創作できているのは、毎週発生する出張への移動時間2時間あまりと、罪悪感が募りすぎた時に無理矢理なんとか創作の時間を確保できたときだけだ。それもなけなしで、何より、自分自身でコントロールできない。
 創作しているときは、誰よりこの表現をうまくやりたいと思っていて、持てる時間のすべてを費やしたいと思っている。にも関わらず、この習慣を、毎週、毎週、繰り返している。地元の友だちと通話をつないでプレイし、その時間が終わっても一人でずっとやる。そして、夜眠るときや、明日から仕事が再開するときになって、ようやく激しい後悔をするのだ。実際に締め切りを落としたことだってある。その多くは、本業が忙しくなったとか、プライベートが忙しくなった、とかじゃない。地獄のように忙しいときのほうが本ができたりもした。けれど、忙しいとか暇とかの問題じゃない。原稿がなければ、締切がなければ、いいや、それがあったとしても、時には……おれは自分に課した、創作への時間を多く捧げるという約束も、あるいは人と交わした依頼とかさえも、無事にこなせない。
 そして、才能がないのかもしれないとか、明後日の方向に意識を向けている。
 問題は、約束さえも守れないほど、ゲームに依存しているという病状にあるのであって、才能の有無はその先の話でしかないだろう。なのに無駄に自分を責めていて、あまつさえ作品ができないのなら、あまりにも馬鹿げていて、愚かなことじゃないか?


 おれはこういうエッセイ(の体をなしているのか?)を何十本か書いたことがある。いま書いているこの内容の、種になっているような内容もある。何せ、おれはゲームよりも創作を後に始めていて、創作をするときは常に、ゲーム依存の性分をどうやって創作への集中に置き換えるか? どうやって自分の欲求を抑え込むか? という問題が、ずっとつきまとっていたからだ。ゲーム依存、という名前をつけたのは今回が初めてでも、内容にてそのことを語っているのは、いくらでもある。
 例えば、ゲームという報酬系への働きかけが早急で、すぐに多量の満足感を得られるような物事が目の前にあるとして……どうやって、ゲームを押し退けて、他の物事に目を向けることができるようになるか? という内容も、よく考えていたように思う。
 創作によって得られる報酬が、ゲームを超える方法を考えたりとか。創作する過程そのものを楽しめるような工夫も考えた。けれど、ゲームという、人間の関心を最速で得るために設計された文明の利器に、完全に浸ってしまった人間が、ゲームの報酬系を速度・量ともに超える方法を編み出すことはできなかった。
 だから次は、そもそも報酬系を求める自我を完全に否定して、お前は苦しむことでしか大きな成果を得られない、と自己暗示をかける方法も実践した。
 結果としてメンタルが完全に自壊して、1年半もの間、筆を執ることができず、ゲームばかりする生活になってしまった。ゲームの報酬系から逃れようとする試みはほとんど敗北して、「どこかで反動が来る」ことが嫌と言うほどわかった。
 直近で実行したのは、一日の自由時間の半分を創作で埋め、もう半分をゲームで埋める、という方法である。これは三日間続けられた……しかしそれまでだった。長い時は一日に八時間ずつ作業ができ、ゲームもできた。必ず創作の時間を先に行うようにして、その後にゲームの時間という構成にした。創作の終了時間になってもまだ続けたいときは、ゲームの時間を圧縮して……続けたいわけじゃないならたっぷりゲームの時間をとって……という形を取ることで、創作の時間を確保した。けれど、一日八時間のゲームの時間を取っても、おれはまったく満足できなかった。ゲームのパフォーマンスが悪くなっているのが分かるし、創作の時間がゲームに当てられていたらもっと上手くなるだろうとか、創作の時間の間に友人とのプレイ可能な時間が過ぎてしまうこともあった。
 凝り性すぎる。
 凝り性すぎるが故に、どちらかを半端にすると、たとえその時間をきっちり管理できていても、両者にフラストレーションが溜まる。
 そして自然とゲームの時間が増え、ゲームの時間が一日のすべてを支配したとき……この上ないゲームへの達成感と、置き去りにされた創作への絶えない後悔が残った。

 おれの病理についての説明はいったんここまでにしたい。これ以上引き伸ばしてもしようがなくて、なぜなら、この話はまったく解決していないからだ。ゲーム依存で創作の時間を食い潰す。人生のやるべきことをおざなりにしてでもやりたかったはずの創作を、依存しているゲームの時間が食いつぶして、それで一年が経過している。そんな愚かな自己嫌悪の習慣は、まったく解決していない。これを書いている今日も、出張の移動時間でなんとかこの内容を書き上げているだけで、その直前までの72時間、すべて食いつぶしてしまったのだから。そのことへの後悔は何百回としてきたけれど、だからこそ、これ以上後悔を重ねても、何にもならない。
 おれが今からするのは、ここまでの内容に増して、個人的で、かつ実験的な話である。これまでとは考え方を変えて、ふたつ、手を打ちたい。その打ち手に対する備忘が、この記事で行いたいことの根幹だ。

 ひとつは、「準備」と「才能」に関する話だ。
 この話の前提として、ここ一ヶ月、おれは自分の本業がうまくいっていない。正確には、仕事自体はまあ大きな問題なく進んでいるのだが、それを問題なく進めているのは、自分以外の先輩や関係者の人たちであって……おれは、何もしていない、と強く感じる。五年以上かけた大きな仕事が終わって、その終盤は本当に気が狂うかと思うほどの状況だったし、少なくない周囲の人が、おれの働きを高く評価してくれた……けれど、おれの内心は、仕事がいよいよ終わるぞ、となったころから、なんとなく、自分自身の自己評価が最悪であることに気づいていった。
 おれって全然なにもできなくて、なんとかしたのはおれじゃなくて周囲の人じゃん、おれって全力を尽くせたか? 何か周囲と自分を進展させる何かを起こせたか? 得たものがあったか? 誰かを幸せにできたか?
 おれがやりたかった創作の時間を削った割に、思ったものを得られていないのではないか?
 そう思えてならなかった。どんな賛辞や感謝も表面的に返すだけの自分がいて、なぜ自分がこんなに不満を抱えているのかわからなかった。
 これは直近で試した、創作とゲームの時間を半分にする……という活動の結果から考えると、納得感のある答えを得られるように思う。おれは、何かものごとをやるとき、根を詰めて、四六時中のリソースを費やさないと、満足しないのだ。思えば、いまの仕事に就職する前から口にしていたことだ。四六時中創作をしたい。その生活を得るためにまずは金銭を得て生活基盤を盤石にする。それがおれの考えていたことで、つまりは仕事は二の次だった。仕事を続けていくにつれ、もっとリソースを投入したい、もっと仕事について考えたら何か分かるかもしれない……というときも、「四六時中創作をしたい」という前提を理由に、仕事からはなるべく早く足を洗った。おれの会社は定時で帰るのが難しい会社だし、残って仕事に打ち込めば打ち込むほど仕事への理解が深まる機会に恵まれる……という構図には一年くらいで気づいていたけれど、それでもおれは、創作をしたくて本業の時間をなるべく短くしようとしたのである。
 それは気が狂うほど忙しかったときも同様で、深夜1時まで連日仕事をしていた時期があったけれど、それでもおれの本心からしたら、まだ本気で打ち込めていない。なぜなら仕事以外の時間は、できうるかぎり創作(あるいは、それを食いつぶしたゲーム)のことを考えたり実際に手を付けていたからだ。

 そんなに時間をかけて何をしたいの、そんなに仕事があるの、ただ時間をかけているだけじゃないの……という疑問に対しては、それでも仕事がある、という回答になる。仕事というのは残り時間がある限り無際限に増えていくものだ。それは無意味な引き伸ばしだけじゃない。
 「準備」なのだ。
 目先の仕事に対してだって、リハーサルをしたり、身なりを整える時間を確保したり、人と情報共有する時間を確保することで、精度が上がり、成功率が上がる。人と仕事をするなら、互いに気持ちよく業務を遂行するために、段取りは必要だ。予想外や想定外はいくら突き詰めても発生するが、それがなるべく起こらないように、あるいは起こったとしてもケアできるように準備シていることが傍目に分かるほど、多くのことに思考を凝らして準備している人なら……人は着いてくるし、仕事の質は上がる。
 準備をしなくたって、付け焼き刃やアドリブでなんとか仕事を進められるものだし、そうやって世の中の多くが回っていることも理解している。けれどそれは、誰かが割を食っていて、誰かに信用的な負債だったり、感情的な嫌悪・不満を溜め込ませる要因になる。効率よく仕事をすることは大事だけど、効率という言葉を傘に、気持ちよく仕事をすることが蔑ろにされているのが現代のやり方だとおれは思う。おれは自分がたくさんの人に仕事をお願いする立場だったし、それも長期間の仕事だったから、気持ちよく仕事をしてもらえないことにはだれもついてこなくなると思っていた。現に、自分のやりたいことだけ放りっぱなしの人が完全に嫌われて干されてしまったのを目の当たりにしたから、おれは少なくとも仕事の時間だけは、本気で準備を重ねて、本気で思考を重ねて、作業する人ができるだけスムーズかつ楽になるようなやり方を模索してきた。
 この考え方は仕事だけでなく、創作やゲームにでももはや無意識的な根幹になっている。ゲームをしていないときに見る動画は、エンタメ的な笑える内容よりも、対戦環境の変化や強いプレイング、上手いプレイングに関する内容が多くを占めていた。創作で本を作るときは、リファレンスをたくさん獲得したり、手に取る人のこと、手に取る会場のことを俯瞰して事前に準備することが多い。これらの準備をしているときとしていないときでは、物事の満足感や、いざやるときの自信、トラブルが起きてもなんとかしようという気概が、あまりに段違いなのだ。そしてそれが、結果につながることも、経験により裏付けられている。

 おれが仕事で評価されていたのは、おれに能力があるとかではなく、やり方を持てる時間の限り考えてアウトプットしたからにすぎない。その内容がどれだけ稚拙で考えの浅いものだとしても、おれは人と考えと気持ちを共有してきた。おれはすこぶる不器用で、効率とは真逆の人間なのかもしれないが、これがおれにできる唯一のことだと信じている。
 そして同時に、仕事というのは際限なくあって、もっとできたかもしれない、もっとリソースを極限までかけていたら、という気持ちは常につきまとっている。
 おれは目の前の快楽や、目先の気楽さを得るために、ものごとをやっているのではない。もしそうなのだとしたら、ものごとが終わったあと、何もしておらず、何も得ていないおれが、凄まじい後悔をしながら転がっているだけだ。これからもずっと繰り返すのか?

 本業は目下、生活に必要で、親戚一同への世間体もあるので、すべて切り捨てて創作一辺倒、というわけにはいかない……のだけど、
 少なくとも、本業の時間の限りは本業のことを考え、自分の持てる時間の限りは、創作のことを考える、そのやり方をやらなければ、おれはやっぱり、うまくいかないのだと思う。

 この考え一本が、直ちにゲーム依存を断ち切れるものとは思わないけれど、この考えはおれの目指すべきところだろうな……と思っているので、大事な一本目として書き記しておきたい。

 長くなったが、ゲーム依存に対する打ち手のもう一つは……おれが、ゲーム依存症であることを公表し、依存の症状が出そうなときは周囲にそのことを伝えたり、場合によっては助けになってもらうことだ。

 厚生労働省によると、依存とは対象のものごととの「ほどほど」の付き合いができなくなる症状であるらしい。おれもこのことはゲームに対してとても感じていて、一度手をつけると自分のリソースをすべて吐き切って目標に向かわないと満足できない。そして、「今は他のことがあるからリソースは割けない」とかの、コントロールがほぼできない。この症状に当てはまるとおれは思っていて、つまりはやっぱり、依存症という病状なのだと思う。
 だから、おれが「ゲームしたいな」とかぽろっと言い出したり、手をつけたりしていたら、ちょっとくらいいいだろう、ではなくて、やんわりでも厳しくでもいいから、止める方向に声をかけてほしい。ちょっと手を付けたら、全部を犠牲にするまで止まれないのだ。そのことで苦しむのは、おれとおれの周囲の人間であり、犠牲になるのはおれのやりたかった創作表現であり、それはひいてはおれがやるべきだった本業の仕事の「準備」だったり、創作のためにおいてきた人生のライフイベントだったりする。おれがゲームをして、依存を起こすということは、それらすべてをゲームに費やしてしまう行動であり、そのことをおれは望んでいない。だから、できる範囲で止めてほしい。
 この記事のURLをおれに見せるとか、過去におれが書いた詩だったりエッセイの内容を見せるとか、そういうのでもいい。だいたいの内容が、この依存症との付き合いが抽象化した何かだったりするので、それだけでもいろんなことを思い出せる。だから、ちょっとの手間で、おれに大事なことを思い出させてほしい。助けてほしい。


 次の原稿があるので、まともに推敲もしていませんが、ここまでとします。最後に、この考えを固められたきっかけになった、とても尊敬しているアーティストの和訳記事をひとつ……。


 

Don't call it a party 'cause it never stops
Now one is too many but it's never enough

 そんなものをパーティだなんて呼ぶなよ
 延々と続いていくものを
 それは掴んでも掴んでも残っているのに
 決して気持ちが満たされることはないんだ


 当時は気づいていませんでしたが、おれも依存症患者だったのかもしれなくて、だからこそオリバー・サイクスの歌詞がずっと好きなのかもしれません。