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どうせ犠牲が出るのなら
手を抜いただけ、見る人にはそのことが伝わってしまうよ。そのような言葉を見聞きしたのがいつのことだったか覚えていないが、いつも脳裏を駆け巡っているように思える。少なくとも、人にお願いをする立場であれば、この考えは必携のものであるように俺は感じている。もはやそれは強迫ですらあって、談笑する暇があればモニタとタイプライターから目と指を離すな、という自己暗示が言葉もなく自分へ釘を刺している。だからこそ時々、誰かの愉快な笑い声がきこえるたび、俺の立ち位置は果たして合っているのか、この心を過る寒風は何なのかと逡巡することもあるが、最早それは構わない。今、自分へ再度問いたいのは、本当のところ、冒頭の言葉をどう捉えているのか、という話だ。
必死というのは時に恐怖を伴う。異臭を放っている。必死というのは、時に、人が人を嫌悪するのに十分なほどの亀裂をみずから生じさせている。それは手段を選ぶ余裕さえも喪失してしまったときに顕現する。傷つけてでも成果を得る。痛みを与えてでも欲しいものがある。奪ってでも目的を達さなければならない。その思い込みは簡単にドラマを生むだろう。インスタントな劇を生むだろう。カタルシスを手軽に求めようとして、周囲を破滅させるマッドサイエンティストを気取る。本人は必死でも、それは酷く醜いことだ。
感慨を得たいのなら、みずからものごとの奥深くまで潜り込み、息もできない空間でじっと何か分からないものを探す、その忍耐を自分で維持しなければならない。それは何より、自分を差し出すという大切な行いだ。自分を差し出すからこそ、本当に探したいものを本能で求めるようになる。
物質主義に走り、等価交換のつもりで他人の持ち物をカタルシスの享受の為に奪って捧げてしまうことに味をしめたら、その人から信頼という言葉は喪われるだろう。みずから忍耐をすることもないだろう。そんな苦痛に耐えなくても、すぐにだって心を潤し感情を漲らせる、とっておきの飴は手に入るのだから。誰かの何かを奪うことで、何よりも迅速に。必死のつもりで必死のフリをしている。
俺は手を抜いていないよ、という説明のために犠牲を払うのなら、その時点で他人の何かを奪っているのかもしれない。
誰にも通じない犠牲。みずからを投じること。みずからの時間と思考を使うこと。その価値の重さは誰にも伝わらないかもしれない。だからこそ確かな光が宿るのだと、俺は信じたい。眩いだけの光ではなく、人工的な蛍光色でもなく、ただ自分の生命を燃やすその行いにこそ、見る者が見れば真価を見出せる光が宿るのだと。
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ただ、できることを懸命に続けた結果が、あるとき、
澄み渡った切っ先として人から見えるのだと思う。
それまでは醜悪で陰気な日陰者だったのだとしても。