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創作というカオス

 無駄な一日を過ごした。自ら選んで、最もやりたかった物事とは別のものばかりに時間を費やして。砂漠の雨の一粒のように追い求めていたはずの時間を、それが潤沢にあるように感じてしまう日には、悉く必要のない、だらけた時間へと変えてしまう。なんてくだらない人間なのだろう。あれだけ、大切なものがあるからと息巻いて、人との関わりを避けて、いざ時間が与えられてみれば、筆を執ることさえ叶わない。何かを為せとは言っていない。ただ書くだけでよい。そう自分で理解しているつもりなのに、その時間が大量にあるうちは筆を執ることさえしない。夜、寝る前になって、時間の限られた状況になって、ようやく筆が進む。昼間のあれら無為な時間は何だったのだろう。ずっと寝ていたほうがマシだったろう。地元に帰って家族や友達と話しているほうがよかったろう。そんな後悔に近いなにかの感情を抱えながらも、相変わらず俺は、誰とも話さないで、大切なこともできないで、何の進展も生まない週末を過ごしている。もっと云えば、そんな自分に対して以前は抱いていた危機感や怨嗟も、もはや以前ほどに覚えなくなっている。自分を責め続ける夜、その呵責の声が弱くなっているのを感じるのだ。
 それは必ずしも悪いことではない。

 俺は最早、無理に書くのを辞めている。それは「書いたという実績のためだけに書くのを辞める」という、至極当然な話だ。
 結論のために書くな。予定調和のために書くな。規定された「らしさ」に押し込められた創作物ほど窮屈なものはないし、そのような創作行為を続けていれば、創作はただの作業だけで構成されてしまう。こういうものを作ろう、と考えたとき、創作は終わってしまい、手を動かす時間のすべてが作業になる。正解のために式を書いていくだけの。それは、酷く苦しい。
 なぜなら結論ありきの創作とは、正解に近づけるための作業とは、書く行為をする時間のことを、そのとき考えることや判断を、ほとんど握りつぶすことと同義だからだ。こうしてみたい、という欲動を壊し、無視して、書く前に決めた目標のためだけに書く。

 他人の創作に口出しはしないが、俺は、そんな創作になるくらいなら、誰かに書いてもらったほうがいいと思っている。機械に代替してもらっても同じだ。こんな絵が書きたいという自分の中の正解を求めるクライアントの要求を叶えることだけが創作行為だというのなら、それは誰かに代わりにやってほしい。

 そう思う理由は、正解を目指す作業がつまらないから、という図式でもない。
 正解を目指さない、創作の中で創作をしていく行為。これが規格外に面白い。だから、これを手放すくらいなら創作なんてしないし、手放すなんて勿体無い。

 予定調和も、承認欲求も、自身のスキルも、他人からの目線も、時間や資金というリソースも、これまで辿ってきた人生も、そのとき身体が求めるものや忌避するものも、あらゆるものが制約になりまた道具になる状況で、
 自他の境界を溶かし、意味と目的と手段がゴチャゴチャに同居しては衝突し合成しては寛解しまた生じる、この混沌こそが創作行為だ。

 然るに創作に動機づけはいらない。大団円のために書くのではない。作る行為の果てに、あらゆゆる制約と願いの果てに、大団円に成るのだ。

 そう息巻く俺は、生活のあらゆる物事について、正解をなぞるような態度を変えずに生きてきた。人の機嫌を損ねず、勝利条件から外れることを避けた。そのうちすべてが面白くなくなって、テンプレートや定石から逃げるようになった。
 今は人と話すことも、自分のつまらなさを凝視しているようで酷く苦痛だけれど、いつかそれも変わる日が来るのだろうか。事前に規定した結論のためではなく、もっと多種多様の要因を見つめながら、これだという言葉を選べるような、きっと健全な人付き合いが、俺の未来に存在するのだろうか。



書いている時間は種々の感慨が入れ交じる。
一人で書いているが、誰かと話しているような感覚。