面白さを追求すること

 書くものの面白さに自信がなくなってくると、思い浮かんだネタのうち、書こうと思えるものがどんどん少なくなって、息が苦しくなる思いがする。本を読み、人と出来事を見て、感じたことや考えたいことはいくつもある。ネタとして書き出せるものはいくつもある。だが、それを「エッセイ」や「詩」という作品の形にするとき、面白さとは何か、を見失っている俺の中から、待て、と声がかかる。

 俺はたぶん、面白さを見失っている状態や、面白さに対する疑問、を持つことそのものが悪ではないと思っている。それは筆を鈍らせるかもしれないが、立ち止まることが重要なときもある。人間が持つ思い込みや癖は、同じ道・同じ時間・同じ自転車のペダルを漕ぎ続ける中では、簡単には解消してくれない。ときには違う道・違う時間・違う手段などで旅に出なければ、新しいものは入ってこない。
 そして、そのためには時間が必要だ。残念ながら、同じ道を走るだけで精一杯の日々に、違う道や違う時間、違う手段という新たな方法、立ち止まりを実行することは難しい。一日というコップに入れられるものの数には、当然ながら限界がある。

 俺は今のところ、毎日投稿など、毎日の習慣とするものは必要だと思っている。それは毎日の時間を固定的に奪ってしまうものの、一日を始めるとき、その一日が創作(人によっては別の言葉が入る。ようは自分にとって、一番の優先順位に置きたいもの)とは無縁の、自堕落で惰性的な何かに埋もれてしまわないよう、最初のきっかけをつくってくれる。一日のはじめに書くことで、筆が温まる。書くことと読むことへの恐れが少なくなっていく。
 そういう習慣は続けるべきだ。俺の経験上、質だけを、新しいものだけを求めているうちに、どうやって書いていたのかを忘れ、書いた内容はこれでいいのか自信をなくしている時間が増えていってしまうから。

 ただしあくまで、毎日書くことでついてしまっている変な癖や、自分の生きたい場所のために改善すべき点は、なるべく自覚的でなければならない。
 でなければ書くだけマイナスになる。書くだけ遠のいていく。
 労力をかけるほどに逆方向へ走っていくことは、残念ながらこの世においてままある。恐ろしいことに。

 『人間はかけた時間と労力に価値を感じる生き物や』(ブルーピリオド11巻)

 とあるが、価値を「感じる」のであってそれが本当の価値とは限らない。本当の価値とは何かは、何を求めるかによって変わるが、もし他人からの評価をある一つの本当の価値と見据えるならば、自分が感じる価値と、他人から見る価値は、まったく別のものに映ることがままある。他人が求めるものと別の方向を中途半端に行ってしまうと、他人から認められるという結末からは遠のいていくだろう。
 何年書いてても求めるものが一つも手に入らない、ということは、きっとありえる。

 だけど、「逆方向でも極端を突き詰める」ことでその魅力を押し付けられることもあるよなとか、改善点をよくしていくだけでは全能力が☆5つ中3つだけしかない、「バランス型」といえば聞こえはいいが結局こいつどの場面で使うねんという性能ができあがることもあるよなとか、考えだすとキリがない。
 何が人を突き刺して、何が人に面白いと思われるかは、画策して、意図して生み出せるものではないのかもしれない。でも、だからといって何も考えないで書き続けるのは怖い。だから考えてしまう。考えるのが正しいのだろうか、考えない方がいいのだろうか。
 「時と場合による」というのが一つの答えだろうが、それも詮無い。結局、具体的な解決を何も出していなくて、誰も救っていないのだから。いいや、迷える人を一挙に救う方法なんてないのかもしれない。さながら『筏の喩え』のように。
 作品をつくるのは自由で、自由であるということは、選ばないといけないことがあまりに多いということ。そして変数が増えるほどに、人間の思考で確実に「これが正解」と演繹できなくなっていく。
 でも、ボードゲームの立ち回りのように、対戦ゲームの戦い方のように、これは強いやり方、というのは確実に存在している。時流やメタによって強さが変わっていくことはあれど。そのとき出すべき筏というのは、きっと存在する。

 習慣によって手を動かさなければ思索に嵌ってかけなくなること。習慣によって癖づいたものが目指す場所とは別の方向に行ってしまうことがあるから、そういう場合には新しいものを入れることが必要だということ。そして、俺というコップが持っているリソース(容量)には限界があるということ。
 時には持っているものを捨てなくてはならないかもしれない。それでも、何が本質で、何を目指していて、何が書きたいのかがわかっていれば、それはきっと、自ずと見えてくるはずだ。
 だから俺は考える。あくまで書くことを続けながら、次の一手を打つ。

 最後に個人的なメモだが、俺は「何を書くか」というよりも、アウフヘーベン、つまりは弁証法的な第三の回答を導き出すというその過程にこそ、小説や物語の価値があるかもしれない、と思っている。それはもしかすると、第三どころか、第四、第五というものかもしれないし、そこまで変数が多くなると滅茶苦茶に物語は大変なことになるだろう。だが、それが書けたのなら、それはきっと、書くものにとっても、読むものにとっても、面白いものになるだろうと思う。
 このような書き方を、毎日書くやつでも、長い時間をかけて書くやつでも実践することができて、かつ、リソースに収まる範囲内でできたなら、最高に近づくだろうな……と思っている。


 まだ書けるかもしれないが、時間が1/25 7:20なのでこの辺で。かつてなく、毎日投稿する時間(と、公言せずに勝手に決めている時間)のギリギリの時間まで書いている。実際、これ以上粘ると仕事の準備の時間が無くなる。
 こういう時間的限界、リソース的限界が、書けるものの幅を狭めてしまっているかもしれない、という葛藤はある。これへの弁証法的な回答も、できれば用意できるといいのだけれど。