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未来の自分の口出しさえも
エッセイを書くのは非常に難しい。頭にふと浮かぶこと、その中で自分の頭上を日がな浮かんでいるフックの強いものはいくつかあるように思うけれど、それを後から見返す文章の形に収めようとすると、いざ書いてみた文章に対して強烈な違和感を覚えることが多い。判断材料も足りないのに、無理に断定して結論を付けようとしているかのような。何か安心できる場所に落ち着こうとして話を勝手に終わらせてしまうかのような。その物事を始発点として無数に伸びていくはずの思考の息の根を止めてしまうかのような。とにかく、見るべきものや感じれた可能性を埋葬し、とっとと手放しているような気分になる。それは、眼前を流れるものをすべて掴もうとして生き急いでいるかのようだ。俺が本当にしたいのは、そんな思考の萌芽を潰すような筆致ではない。そんな気がしてならない。エッセイという形態というより、これを毎日書こうとすることに問題があるのだろうか? 毎日書こうとするから、眠い中でも進行させようとするから、無理に文章を終わらせようとしていないか? など、このやり方自体に様々思うところがある。それもこれもすべて、あとから見返したとき、自身にとって気持ちの悪い文章になっていないか、支離滅裂な言葉になっていないか、という懸念が生み出している恐れなのだと思う。
書き続ければいつか、この恐れを手放せるだろうか。その時に書いたものをただその時に書いたものとして受け容れ、過去の自分にも未来の自分にも口出しさせないような、開かれたようで不可侵の領域を広げることができるだろうか。これは夢想。しかしどこかで結実を迎えるかもしれない、想像。
恥の上塗りだとしても、変な癖がつく悪い習慣なのだとしても、まだそうであると決まったわけじゃない。後先考えない筆先を、ただ一人に媚びない執筆を、その先に何があるのか知りたい。
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その果てにあるのは自明だった道理なのか、
まったく未知の出逢いなのか、
それらを総合して、無駄と呼ぶか、感慨とできるか?