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息をする度うまれる過ちへの自覚

 自身の人生において最も重要な重しは、自分という器に他の何よりも先んじて入れておかないと、その重しを入れる機会は永久に喪われる。その重しを入れることで得るものも、出逢うものも、血も、涙も、暖かみも、触れることも叶わない。もっとも残酷なのは、その重しの正体に自覚的でありながら、自身の器にそれを入れられず、将来の長い時間を棄てきれない羨望や諦念と共に過ごすことだと俺は思う。
 自分にとって最重要の事柄を最優先にできない理由は人の数だけあるかもしれない。もとより何をするにしたって、それをする/しない理由など腐るほどにある。中には言い訳と言い換えられる理由もあるだろうし、誰が見たって本当に仕方のない理由もあるだろう。もし何らかの理由で自分の器に最優先の事柄を入れられず、忸怩たる後悔が口の中に拡がりながら人生を過ごすのだとしても、現代においては自己責任と云われ、同情や共感とは逆の言葉が空気中を舞っているのだろう。とにかく、それが同情に足るものであれ、共感し得るほどのストーリーを持っていようといまいと、自分にとって最も大切なものの優先度を最大化できない人生ほど、苦痛に満ちたものはないと俺は心底思うのだ。欲しくもないものが喪われても喪われたことにさえ気づかないものだが、咽喉から手が出るほどに求める暖かみがこの指をすり抜け消えていくときの気持ちほど、絶望と呼ぶに相応しい感情を俺は知らない。

 人間が不幸なのは幸福や快楽のお零れに預かろうとする性にこそ根源があるやもしれない。それは誘惑だ。蠱惑的な手招きだ。例えば広告。煽情的な黒縁の赤い大きな字。過度なほどに不潔であったり、刺激的なほどに清潔であったり、とかく、何も考えていなくとも情報が飛び込むようにできている。現代のコンテンツというのは人間の限りある集中力を奪い合って成り立っている。大いなる矮小なゼロサムゲーム。それは広告を受け取る人間の脳と身体が本来持っていた機会を奪ってでも割り込んでくる侵略戦争だ。俺にはそうとしか見えない。同時に俺はこの侵略戦争に完全に否定的ではないし、侵略という営為を全否定してしまったら人間の根源的欲求に否と言うのと等しいとも思っている。
 広告業に罪があるのではない。人間が煽情的なものを魅力に感じるその根源に罪があり、それは個人ではなく種族と文化に宿っている。しかしそれを利用するのだとしても、節度と誠意があるだろう、というのが俺の意見だ。他人の集中を妨げてまで飛び込みそのことに呵責も抱かないというのなら、仮設トイレに群がる糞尿に塗れた羽虫と何が違うのだ、とまで思う。
 俺は努めて広告から離れる。蟲のように蠢き厚化粧のように色めく広告から、それらに塗れた公共放送から離れる。もはやインターネットでさえ同じ場所になってしまった。真っ白であれ、ねずみ色であれ、文字と余白だけが存在する空間が、どんどんと喪われていくのだ。埋められた余白は、人間が一人一人持つ有限の器に流砂の如く流れ込んで、結石のように空間を塞ぐ。そして可能性は喪われる。未来は喪われる。希望は、暖かみは、苦痛は、かけがえのない悔しさは、他人の体験と言葉によってそれを得る機会ごと喪われる。俺にはそれが赦せない。そのような行いに無自覚であることを、あるいは自覚していながら自己弁護をすることを。それは動物の肉を喰らっていながら害獣駆除のニュースに可哀そうと考えなしに呟くのと何が違う?

 綺麗なままではいられない。産まれた時から我々は疾うに汚れ切っていて、あったはずの可能性は擦り切れて、未来を塞ぐ結石ばかりが身体の重しになっている。それでも、そんな自分でも、最も大切なものを携えて生きてみてもいいですか。俺はその願いとも言うべき問いに、可能な限りの形でYESと回答したい。祝福したい。穢れに自覚的であり続ける者が描く物語は、人間が生むものの中で最も美しい。


掛け値なしに世界は美しく、同時に汚れてもいる。
美醜はどちらもこの世から生まれ出る。
いわんや人間をも。