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本当に失っているもの
自分が何事かに対して、不適格で、不適合で、不必要で、歓待に値しない存在であると弁を立てることは簡単だ。他者と比べて足りないものや過剰なものを探せばいい。それを一つ見つけて、然るにお前はこの場所に相応しくない、と付け加えてやれば、あっという間に不適合者だ。もし、上記のような論理に振り回され、あまつさえ反抗さえ示さず、じゃあ私は何も取り組むに値しないのですとスマートフォンのバックライトに胡乱な網膜を預ける者がいるとすれば、どんなに惨めで哀れだろう。これは自己批判だ。ふとしたとき、筆を折って寝床へ逃げ込みたくなる、そんな性分を持つ自分に対する呪詛だ。それよりも早く手を動かせ、役不足は能力の過不足では語り得ない。そんなことを壁の染みに向かって呟いている。
会社という組織に属して、何かの目的を共有し労働していると、リソースをいたずらに使用できず、そのために他人と議論や認識合わせをしなければならない場面が発生する。それは大きなプロジェクトにおいて、その達成期限が迫るほどに、議論の必要と発生頻度は急速に増す。時間がないからこそ、手を動かすより先に、やることとやらないことを決める。そうすることで、多数の人間が小学生のサッカーのごとく思い思いに動いたり、目的外のことに力が分散することを防止することができる。営利活動をする企業において、集中と選択は避けられない過程の一つだろう。
しかし思うに、このやり方も一長一短、短い部分、短所、喪われる部分が存在している。それは、とにかく総当たりで条件分岐の可能な限りを網羅し、考え得る限りの手を打ち、失敗に失敗を重ね、その果てに確かで手ごたえのある正解に至る過程だ。小さな発見を潰さない姿勢。判断よりも先に情報を求める方法。俺が思うのは、情報が十分でないときに議論をすると、議論が発散する傾向にあるし、議論を一点集中させたとしても、大抵、いざ実行と一手二手勧めた段階で新たな事実が判明し、議論を通して立てた予定が大きく崩れるということだ。情報がないうちに話し合うことは、事実とは方向も深度も異なる議論を進めてしまうことに繋がりかねない。それは向きがあっているとも限らないし、深度が浅すぎて考察足り得ないか、深度が深すぎて議論の皮算用で時間を浪費しているのかすら判別できない。とにかく、手を動かさなければわからないこと、事実を目の当たりにしなければ話せないことは山ほどあって、その前に話を進めすぎることによるリソースの浪費もまたリスクである。
然るに、議論と称して一堂に会する前に、より多くの情報を収集しておくことは、目指すべき道をより正確に確認するための頼りになる。何の情報もない丸腰で、手を動かしたことのない者が、何も見聴きしていない者が議論をすれば、それは妄想のぶつけ合いでしかない。
他人を巻き込む組織形態であれば、我武者羅に全部の条件を検証していくというのはかなり厳しいかもしれない。しかし、自分というリソースだけを使える個人活動ならば、弁より先に手を動かすことができる。リソースを使うことに対して説得をする必要も最小限だ。自分の内心だけを納得させればいい。
論理のパズルをするのは、情報が出そろってからでいい。自分で見聞きし、手を動かし、そこで失敗するのは前提のつもりで準備して、失敗と恥と後悔を重ねに重ねて、その先でこれこそがという道を見出せたのなら、失敗と恥と後悔は大きな価値へと変わる。まずはパズルのピースをひたすらに集めることも重要だと、俺は思う。
手も動かしたことのない者が、一般論や他人の話だけを理由に、自分がその一般論や他人に比べどれほどずれているかばかりを勘定すれば、やがて自分は歓待されない人間だという結論に達するだろう。そうなる前に手を動かして過程と結果をとにかく集積する。いずれ死ぬ生命だがただでは死に迫らせない。そのつもりで向き合う他無い。自分の最も大切な事柄には。自分の人生の重しには。さもなければ、自分の残り時間という最大級に価値のあるリソースを喪いかねない。
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闇雲で傍目には理解不能な孤独の旅路だとしても、
生きるために必要なら、根を伸ばし続ける。
それがなくては生きられないなら、
それなしでは死に切れないなら。