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無自覚に見落としていく

 つくづく俺は、やめてください、が言えない人間だと思う限りだった。友人であれ、仕事の関係者であれ、家族であれ、その言い方は嫌だからやめてほしい、が言えない。基本的に耐えている。耐えているが、内心には不快感とフラストレーションが鬱積していて、何かの拍子、外部の刺激でタガが外れる。大したことのない、普段なら流せるような不快でも、鬱積を繰り返した果ての最後の決定打には簡単になり得る。タガが外れると、本当に不満を感じる相手とは違うものに対して酷い言葉を言ったり、あるいは誰にも言えないままの状況であれば連絡を急に絶ったりする。大抵、急用ができたとか、体調が悪くなったとか、通信回線が落ちたとか、真実と違う理由をつけて、後で落ち着いてからメッセージを送るだけで済ませる。そんなだから少しずつ人が離れて、誰にも触れ得ない部分が増えていく。
 タガが外れるまで何も言わないことの弊害はここまで分かっている。わかっているが、それでも、真に不満に感じていることは未だ言えないし、今日だってそう思った。この違和感を相手に伝えたところで、相手を傷つけて、その報復として俺の思考の倒錯を突き付けられる。誰も幸せにならない。自分の気に入らないことを、こうした方がいいとか、こうしてほしいとか言われるのは、時に腹立たしい。その不快感を思えば、俺の不満など俺の中で貯めておけばいいし、それで嫌われるのは俺なんだから構わない、と思ってしまう。言わないことで相手がヨソで恥をかくのだとしても、そうなって初めて自ずから、直したいとか、何とかしたいと思うものだから、勝手にしておけばいいと思う。それを恥と感じるかはその人の感性であって、相手が心からそう思わないうちにそれは恥ですよと伝えるのは、身内や子供に対して言うものだろう。しかし俺たちは子供じゃない。
 車の運転や器材の操作で事故を起こす危険があるならば積極的に伝えるべきだが、別に人が死にもしないことに目くじらを立てて指摘しようものならそれこそ他人を傷つけるだろう。言葉の使い方が他人を殺すこともあるとまで言うのなら、そこまで言えるほどに乱暴な物言いを相手がしているのなら言ってもいいと思う。あなたが言おうとしているのは、ここまで書いたことに当てはまることなのか。でなければもはや個人の感想だし、個人の志向や考えに過ぎない。それを発露するなとは言わないが、それに同調しろという態度で来るのは、喧嘩になっても仕方がないんじゃないか。

 もし、人付き合いの中で、自分の汚点を指摘してほしいなら普段からそう言ってくるだろう。そう言わないうちに、勝手に指導者や先人を気取って先輩風を吹かせて「こうした方がいい」「こうしないなんておかしい」なんて言い方をしようものなら、それは人間関係として倒錯しているんじゃないか。
 俺は、言ってほしいことは言ってほしいって言うよ。あなたが発言することも含めて責任を持つから、それで言われた側の俺が不快に感じたとしてもそれを不要に表に出したり他人に言ったりなんてしないから、今回は言ってくれって言うよ。何も言ってないのに勝手に指導を始めるのはやめてくれ。面白くないから。興醒めだから。せっかく互いの限られた時間を使って楽しみを見つけようとしているのに、楽しみ方を一点に絞ってしまうのは、あまりに不自由な遊び方、生き方だと思わないか。

 でも、俺の考えは、基本的に何も言わないでくれ、がベースにあって、だから人のことがどんどん信じられなくなっていくのかもしれない。結局、伝え方が上手い意見しか聞きたくない、という我儘だ。そんな選り好みをしているから、まともな友人関係ではなく、搾取しようとしてくる甘言のほうに靡いたりする。そんなこともあったな。
 伝え方が下手なのは前提として過ごしていったほうがいいのかもしれない。見落としや別の側面の可能性を放棄するような言い方をしてしまうものだと人間を捉えるほうがいいのかもしれない。俺も、相手も、誰もかもに対して。


ある人は「私は言ってほしい人です」と言っていた。
そんな人も無遠慮な要望ばかり言う人には憤っていた。
俺は間違わない自信がない。
他人との距離感も、なるだけ不快に感じない物言いも、
可能性を広げる言葉がけも、できているか分からない。
だから休日は他人から離れて過ごす。
人付き合いが苦手なままで、改善は見られないままで。
できればそれももう、終わりにしたい。