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目的の奴隷
努めて、媚びない文章を書こうとしている。理解を求めない。共感を求めない。分かってもらおうとしない。その希求は俺が手に取った現実をどうしようもなく歪めてしまうから。ただでさえ、文字にせよ、絵にせよ、音楽にせよ、表現と云うのは現実を毀損する。伝え損なう。伝送効率が100%になることはない。それは、見方によっては、表現と呼ぶべく行為などすべて無駄ということなのかもしれない。無駄どころか、ともすれば周囲の世界を願うものとは真逆の方向に向かわせてしまうかもしれない。言葉などまったくの不要物、誰かにとっての邪魔者、だったのかもしれない。
だとしても、いくら削ぎ落されたとしても、100%のうちほんの一部、断片的な欠片しか残らなかったとしても、あるいは失敗し燃え尽きて大事なことは何も残らなかったとしても、もしくは残ってほしかったものとは違うものが残りそれらが断片的に解釈され最悪な捉え方をされ人は死に思想は死に誰よりなにより愛した想いが迫害され汚名を着せられ稀代の殺人者に仕立て上げられたとしても、
だとしても、それでも、書かなくてはならないという希求、それだけを携えて、書きたいのだ。
伝え損ねても、聞き損なわれても、それでも、ここに、これがあったのだという墓標を立てる、弔い。果てない闘い。何のためでもない、ただ何かに突き動かされ、意味も目的も喪失して、重力に引かれ放熱し大気圏で塵芥と化すその瞬間まで、突き動かす何かを書き続けること。それ以上に、それ以外に、俺の人生に何があると云うのだろう。
全人類がこのような思考回路を持つわけではないらしい、と気づくのは学業を修了し日本の社会の一員となってからだ。その気づきは、俺は誰かと共に居られる、心を、身体を分かち合えるという信仰を棄教する最大の契機であった。様々なすれ違いが積み重なり、現実は「解り合えない」という事実ばかりを遺した。視点を変えれば、俺が持つ無私の愛とは、たかだか数年の社会人生活で膝を折るほどに脆くくだらないものだったのだ。弱い。その言葉が何度も空洞の体の中を反響した。それは拡声され合成され心臓に強く打ち付けていた。あれほどまでに信じた想いが、表現が、芸術が、俺の中にはこれっぽっちしか無かったのか。少しばかり無理をした程度で、反応や名声という見返りを、孤独の解消という報酬がなければ自壊してしまうほどに、筆を折ってしまうほどに、脆かったというのか。
今や俺は、他人と解り合えるということを信じてはいない。我武者羅に書けば、自分にとっての誠実を貫けば、望むものは手に入るのだ、という信仰はもはや俺の中にはない。どれほど学び詳しくなっても、いかに書いて人を想ったとしても、望んだものが返ってくる保証などない。それでも生きる他にない。そのような単純で、どうしようもなく惨めで、だけどきっと誰もが直面するであろう道理に気づくまでに、俺は自分にとってかけがえのないものを果てなく毀損してしまった。大好きだったものに何もかもを託して、そのくせ見返りが思ったように得られないと気付いたとき、この世に救いはないのだと心底絶望して、全部を捨ててしまった。人間関係は失われた。
あったはずの機会も。得られたはずの日常も。重ねられたはずの信頼も。愛せたはずのものも。俺が自ずから発狂して、棄ててしまったのだ。そして、二度と取り戻せなくなったのだ。
信じられるものがあるとすれば、今ここにある事実を置いて他にはない。できるかもしれないという空想はその種にはなるだろう。しかし実現しなければそれらの種子はすべからく妄想の域を出ない。
その空想は実現されたか?
それを実現する過程はどのような感情を伴っていたか?
それは一度きりのものか、続いているものか?
空想から実現までの道すがらは、痛みも苦しみも喜びもすべて踏まえて、やる価値があると言えるものか?
そう言い切れるものを探してここまで来た。それはたった一つである必要もない。今日、祈りを込めて、墓標となる営為の一つを打ち立てたい。
何の為? 何の為でもない。未来でも過去の為でもない。他人でも自分でもない。世界でも共同体でもない。ただ、関心が及ぶことを書き続けるだけ。
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必ずしも生身の人である必要はない。