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惰性を憎んだ先

 忸怩たる習性とはわかっているが、自分と向き合えないことに対する不完全燃焼を、他人の不義理や情けなさをボロカスに糾弾することで埋めてしまうことがある。汚い罵りで埋め尽くされた脳内は澄み渡っている。曖昧模糊なもの、結論できないもの、だからこそ見つめる価値があるはずのものを置き去りに、分かりやすい汚点を指摘して満悦に浸るだけの自己。
 簡単な問題を解いて自尊心を満たすためだけに生きてきたのなら、夕景も後悔も惨めったらしい恋慕も引き摺りまわした矜持も、この人生で何の価値もないのだろう。ああそうとも、払拭できなかったものを延々と見つめて、眼前を過る愉しいものを見過ごすような倒錯に、価値などあるとは標榜できない。しかし、それでも俺は、思ってしまう。身を裂くほどの悔恨にも、顔を貫きたいと駆られるほどの怨嗟にも、この場所に辿り着いたのなら価値があったのだと、やはり、悔恨と怨嗟によって連なるその道の先を見たいと、そんな非効率極まりないことを願ってしまうんだ。

 未練を引き摺って、疲弊して、だからこそ見過ごす優しさや彩りがあると思えてならない。俺は間違った人間だよ。この世に間違っていない人間がいるとは思えないが、少なくとも自分の間違いには薄々気づくことを避けられない。人生で最も長く付き合うのは自分という人間だから。そう考えるのも、俺が他人を避けて生きているからだろうか。絶え間なく人と接するような他人を見ると、よく辟易を露悪的に表出しないものだと感心する。まるで別の生き物を見ているかのようだ。
 未練を引き摺ることは推奨しない。古傷をみずから抉る気持ちよさに浸って、大切なことに気付かないのは悲劇だ。けれど、古傷の瘡蓋が織りなす辺獄を、その先を見たくて、今日も傷跡に爪を立てている。続けていれば実るものがあるとして、俺がこのような行いをして得られる果実とは、どんな匂いで、どんな手触りで、どんな色をしているのだろう。倒錯者にも華は咲くのだろうか。分からない。やったことがないから。

 おそらく、という前置きをしつつ確信しているのは、続けられることの先にしか道はできないということ。俺にとって続けられることは、過去の感慨をまじまじと見つめることだ。それは他の誰にもできない。そして、他の誰にも感情移入できないものかもしれない。それでも、この道を往くしかないのだ。他に何も、俺が続けられたものはないのだから。


惰性で続けたものの先に、肚を括れる道があるのかもしれない。
怠惰さえもかけがえのない未来を作るという事実は、
詮無い、虚しい。だが、それさえも利用する他ない。