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起業をするハメになるまでの経緯と、使命感と決意

前回、起業した理由について記事にしましたが、今回はそこに至った経緯についてもう少し詳しく突っ込んで書いてみたいと思います。

私は起業をしたくて起業をしたタイプの起業家ではなかったのです。

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人生を賭けてでも、叶えたい世界が見えてしまった

私が起業した理由は、人生を賭けてでも叶えたい世界が見えてしまうほどの出会いをしてしまったからです。そして、それを叶えるための手段に起業しかなかったからです。

起業は、目的ではなく手段であったということです。

その出会いこそが、HQCチェックという大阪でひっそりと開発されてきた特許技術でした。HQCチェックの説明は、また別記事でたっぷりするとして、とにかくこのHQCチェックの開発者に出会った時に、自分の使命を直感したのです。

なんとかHQCチェックを使った事業を創りたい!と開発者に熱く語りました。しかしながら、人を雇用するほどの企業体力が今はないというのが回答でした。

『もしほんまにやりたいなら、独立してやるか?』

そう言われた瞬間に、

そうか、自分は起業するのか。

と自分でも驚くほど素直に、そしてなんの違和感もなく自然とそれを理解したのです。自分の使命を悟ったという感覚に近いです。


どうしてもがんに勝てなかった母の無念

なぜ、HQCチェックに出会った時に自分の使命を直感したのか。
それは、母のことを語る必要があります。

母は、2015年5月に乳がんからの全身転移でこの世を去りました。

私は、母子家庭で育ちました。
母は、私がちょうど高校に上がる時に乳がんであることがわかり、手術をして切除しました。しかし、残念ながらその後転移が見つかりました。それから母は、がんに打ち勝つために約7年間にわたり、ありとあらゆる代替療法を試しました。

しかし、病状は徐々に悪化し残念ながらその進行を止めることはできませんでした。家族としては、少しでも可能性がある治療法ならどれだけ高くても試しました。たとえ、どれだけ胡散臭い内容でも。

でも結局ひとつの言葉で片付けられるのです。

『個人差があるので。』

なんてずるいんだ。これじゃあ悪徳なのかも判断できない。
がん患者の藁をもすがる想いに漬け込んだ商売に心から嫌気がさしました。


多才で、なんでも自分でやらないと気が済まない性格の母は、日常生活すら日に日に一人でできなくなる状況に絶望していきました。努力の甲斐なく背骨に癌細胞が転移し、骨が溶け始め、歩けなくなりました。

『もうだめかもしれない。早く死にたい。』

あれだけ前向きな言葉しか言わない母からそんなLINEが飛んできました。
泣きながら、『ホスピスも考えてみる?』と返信しました。


ホスピスで自分の無力感を知る

そこから、母はみるみる衰弱していきました。
本当に苦しそうで、正直にいうとお見舞いにいくのがつらかったです。医療麻薬であるモルヒネを打ち始めると母の意識は常に朦朧としていて、最期の1ヶ月はまともに会話すらできなくなってしまいました。

まるで子供に先祖返りをしてしまったような母は、愛おしくもあり、人は死に近づくと若返っていくんだなと不思議な気持ちになりました。

最初で最期の母の日のプレゼントには、写真を切りとってボードをプレゼントしました。それをみて笑ってくれたのを覚えています。

今、自分にできることはなんだろう?そんなことをずっと考えていました。それと同時に救ってあげることができなかった自分の無力さを痛感し、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

そして、最期の瞬間。
私が感じた感情は悲しさではなく、心からのお疲れ様でした。

涙を堪えきれなかった瞬間は、火葬場で母の骨を見た時でした。
背骨がほとんどなかったのです。がんが転移してほとんど溶かされていたのです。そりゃ、つらいよね、つらかったよね。

結局、涙で母の骨を拾うことができませんでした。

『癌が憎いな。』

そう思いながら、大学院へ進学して、がんの研究をはじめました。


天国から母の声が聞こえたような気がした

母は、長年闘病生活をしてこれに打ち勝つためにたくさん勉強をしていました。免疫力がいかに大事で、それを作るのは栄養であるということ。ビタミンとミネラル、酵素の重要性についてよく教えてもらっていました。

そして、将来はそういったことを研究して欲しい、伝えるような仕事をしてほしいと言われていたのです。当時としては、できたらいいねーくらいの相槌をしていたと思います。

そして、母が亡くなった1年後にとあるきっかけでたまたまHQCチェックの開発者に出会います。そして、それはまさに栄養や免疫、酵素という考え方で構築された技術であることを知ります。これは、まさに母から教えてもらっていた考え方そのものなのです。

『これをやりなさいということなんやな。』

直感しました。これが自分の使命なんだと。
それは23歳、まだ大学院生のころでした。ここが自分の人生の大きな分岐点になりました。そこから、これから母と同じような想いをする人を減らしていくことを自分の人生のミッションと決めました。


惚れ込んだHQCチェックを世の中に広げたい

人生を賭けてでも叶えたいものに23歳という若さで出会ったこと。
これは、母からもらったなによりのギフトであると感じています。そして、最短距離で行動を始めないといけないと思いました。

その後開発者から、『もしほんまにやりたいなら、独立してやるか?』と言われた半年後に法務局に開業届を持って行きました。当時は24歳、社会人経験は1年しかありませんでした。

お金も人脈も経験もなし。

それでもやらなきゃならない。そんな使命感だけでした。
もちろんそんな状態での起業だったので、それなりの代償は払いました。その時の苦労話はまた別の機会に書きたいと思います。


そもそも病気にならないことが、一番幸せなこと

人は病気にならないと、健康の重要性に気づけない。

それを変えたい。それはとんでもなく難しいことだということは知っていました。けれど、誰かがここに挑戦しなければいけない。リスクをとれる独身の若いうちにやらないときっと挑戦できなくなる。

だから、自分が

『日本に未病産業を立ち上げる。』

誰もできていないからこそ、難しいからこそ、それに価値がある。
それが母へのできなかった親孝行にもなると信じて。


そんなわけで、起業をするハメになってしまったのでした。

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