私たちはきっと、何も知らない
近頃再放送をしていたNHKのドラマ『腐女子、うっかりゲイに告る』
人と共存して生きていくこと、他人を理解することとは一体どういうことなのかを教えてくれる作品だった。
世界を簡単にしていないか?
主人公の純に、三浦さんというクラスメートの女の子が、腐女子バレをするところから全てが始まる。三浦さんは、腐女子であることは他の人には絶対にバレたくないと純に強く口止めをする。
一方、自身がゲイであることに悩む純は、ゲイがバレるよりずっとマシだろう、なぜそこまで大騒ぎするのか分からない、というような反応。
そんな純に対して、内省を促すのがネット上のゲイの友人であるファーレンハイトである。
「真に恐れるべきは人間を簡単にする肩書き、さ」と。
どうして君のゲイがバレるより、彼女の腐女子がバレるのは大したことがないと分かるの?
『腐女子の三浦さん』で終わらせるのは違うんじゃない?
その単純さこそが僕らを苦しめている要因ではないか?
そんな風に問いかけているようにも聞こえた。
『ゲイ』というカテゴライズへの偏見や理解のなさに苦しむ純もまた、三浦さんを同じように簡単にカテゴライズして終わらせてしまいそうになっていたのだ。
そして、二人の会話は8話に渡ってこのドラマが伝え続けてくれるメッセージにつながる。
「人間は、自分が理解できるように世界を簡単にして分かったことにするものなのさ」
純はそれを「物理で、ただし摩擦はゼロとする、みたいなものだね」と例える。
「"摩擦がゼロ"なわけはない。"空気抵抗を無視して良い"わけがない。だけどそうしないと理解できないから、世界を簡単にして、例外を省略するのさ。」
摩擦をゼロにする二人
周囲の人が理解している世界を壊さないように、大好きなBLを無いことにして生きる三浦さんと、ゲイであることを無いことにして生きる純。
三浦さんは純がゲイであることを知らないまま純に恋をし、純は純で三浦さんのことは人として好きだし、『普通』の幸せを手に入れられるのでは?と期待をし、二人は付き合うことになる。
しかし、純がゲイであることは後に三浦さんにも分かってしまう。
どんなに頑張っても好きにはなってもらえない相手だと分かり、どうにもならないことだと悟りながらも、大好きな純が一体何を考えていて、何に苦しんでいるのかを、どうしたら分かってあげられるのかと懸命に模索する三浦さん。
それを受けて、純もまた、自分が三浦さんのことを何一つ分かっていないと気づく。性的に興奮できなくても、確かに大好きで大切な女の子なのだ。笑ってくれると嬉しいのだ。それなのに、彼女のことを何も知らないと。
『腐女子』と『ゲイ』の話では無い
タイトル通り、『腐女子』が『ゲイ』に恋をしたところから始まったが、段々とこのドラマは『腐女子』と『ゲイ』の話ではなくて、『三浦さん』と『純』の話なんだと分かる。
『ゲイ』ってどういうことだろうと知ろうとするのではなく、目の前の『純』を知ろうとする三浦さんの姿勢が何よりも尊くて、涙が出てくる。
終盤で、純は三浦さんに「僕をちゃんと見てくれてありがとう」と伝える。ゲイに対して理解を持ってくれて、とかそういう話ではなく、性的指向に囚われずにあらゆる側面から僕を知ろうとしてくれてありがとう、という感謝にも聞こえた。
多様性を紐解けば、目の前の人に繋がる
世界を簡単にすることは、制度などの面で全体の底上げを図るには有効な場合がたくさんあると思う。分かりやすくしたからこそ、できることもある。
ただ、一個人として誰かと向き合うとき、簡単化することは悪だし人としてサボっていて、それがあらゆる世の中の苦しみにつながっているんだよ、とこのドラマは教えてくれる。
この人はこういう人だから、と理解できたような気になる瞬間があるのであれば、それはもう理解したわけではなくて、理解を放棄しているサインだ。
他人を理解するなんて絶対に無理だけど、だからこそ、理解しようとし続けることが、人と人が一緒に生きていくうえで絶対に忘れてはいけないことなのかもしれない。
※今回の話題に近いような気がするので、過去の記事も貼っておきます。