こんなことを書けば凡人の自分が明確に見えてがっかりするのだ。
中途半端、ただの傍観者の側に甘んじる自分に対するポジショニング。
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皆さんは縦でも横でもない、ななめの関係をもっていますか?私は自分の人生の節目節目でななめの関係に支えられてきたと思います。それら、彼らに感謝したいと思います。
縦の関係は上下関係にあたります。一方、横の関係は自分と同じまたは似た属性の人やモノです。
そして斜めの関係というのはそのどちらにも属していないところで関わる人やモノやことです。
具体的にいえば例えば習い事の場で出会う人。あるいは趣味、趣味のサークルの人。アルバイト先の人や以前の職場の人たち。
旅先での思い出。近所のおばちゃんや子供、行きつけのバーや居酒屋さん。SNSで知り合ったオンライン上の知り合いでもいいです。ただし素直に話せる相手。
それらは実生活からは少し距離のあるコミュニティであるかもしれません。
家族でもない、会社でもない自分と属性の異なる対象。
それらの存在は、自分の内面について考えるときだけではなく、仕事や外部の人とかかわる際に自分の立ち位置を考えるときにも基軸になります。
今回私は自分の20代のころに焦点を当ててみようと思います。私が20代のしんどかった時に、大げさに言えば救われた、ひかえめにいえば励まされたり気持ちを軽くしてくれたのは、このななめの関係の存在でした。
10代のころの自分にとって、それは読書や音楽でした。そして学業とは関係のないおしゃべりができた保健室の先生や図書室の司書の先生、それから読書や音楽の好みの近い友人でした。
社会人になり、能動的に何かに参加したり見聞きする機会をつくるようになりました。ここでは何もしないと話し相手はできないと気づいたんです。自分から声をかけないと、はじまりませんでした。
私は14歳のころから洋楽にはまりましたが、そのきっかけをくれたシンガーが大好きで、彼女のプロデューサーに会いに行きました。彼には楽曲制作にまつわる話や音楽性について、さまざまな話を聞かせてもらいました。
このころは、自分がどんな感じのものが好きなのか、それを知るのにはどのへんをうろうろしたら出会えるのかなーなどと考えていました。
同時に、自分とは全く異なる世界観や食い扶持をもっている方と話すのはとても興味深く、刺激的でした。当時自分にあったある種の閉そく感から解放される気持ちでした。また彼らの情熱やエネルギーに圧倒されました。
当時は一人暮らしだったので、だれも私をつなぎとめるものはいなくて、自由でひとりぼっちでした。
閉そく感、閉鎖性というものが自分をだめにすると知ったのもこのころです。
そのあたりから割と行動することに躊躇がなくなり、同人誌の表紙を描かせてもらったり美術館の学芸員さんやNPOの代表の方に話を伺いにいったりしました。そんな経験の中でわかったことがあります。最初から自分で選んだ道を歩んでいる人もいれば、結果的に行き着いた道にいる人もいましたが「彼らは自分の居場所や役割を自分できめている」ということでした。彼らにも当然、家族や所属するものはあり、そのなかで決められた役割や立ち位置があります。
一方で、同時に自分のなかに何か核を持っていて、それを自分の中で育てているようにみえました。
今回例に出した人たちはサラリーマンもいればそうでない方々もいますが、みな基本的にはある種の「夢をもった」人達です。
しかしゲームのスイッチをオフにしたり本を閉じるのとは違い、夢を叶えたあとも人生はつづきます。
どう続くかは運と自分次第です。
そんな中、挫折したり、家族やこれまでいた属性を捨てたり、次に進むために新しいことをしたり、その夢自体が変化したりして、彼らの今があるということを教えてもらいました。
ここ数年のコロナの影響を受けて私たちは行動が制限されたり、中断を余儀なくされたり、家族や仕事を失ったり憂鬱な気持ちが続いたりすることがあったかもしれません。そんな中でも普段の生活やいつもの視点を俯瞰するなにか、なんでもいい、好きなことや好きな場所、好きな人や出来事との思い出があるということは、とても自分の支えになります。
それは自分自身が何かを決めるとき、自分の軸を考えるときにとても大事な役割を果たしてくれると思います。
夢を持つとか叶えるとかたいそうな話ではなくて、何か落ち込んだりへこんだ時に支えになる「物事を俯瞰できる自分」を育てるにはどうしたらいいかを、私は、自分の実生活に直接関係のないななめの存在が考えさせてくれる経験をしました。
皆さんにはこのような存在はありますか?ありがとうございました。