(雑談)断捨離で少し前までの自分を学ぶ
年末らしい話で、
いわゆる断捨離みたいなことをしてました。
少し前、見ていて気分が上がらない、なんなら少しいらいらする壁の絵を外しました。代わりに好きなパウル・クレーのシルクスクリーンプリントをかけたら、見た目も気分も調和がとれたので、それで勢いがついたんだと思います。今回、あと回しにしていた洋服の整理に着手できました。
(クローゼットがそこそこ一杯なのに着たい服が少ないという問題に気付いてはいたものの、ずっと放置していました。)
結果、思った以上に少し前の自分のことがわかったので、やってみて良かったです。
身につけるものの選択は、イコール、その人の精神状態や生活習慣、さらには人生に対する態度だなあ、と改めて。
ほんの数年前着ていた服は、自分のものでありながら同時にそうでないような、かなりの距離を感じます。
そんな洋服たちは、主に三つのカテゴリーに分けられます。一つは、性的なアピールを意識して選んだもの。二つめは、本当にどうでもいいもの。最後三つめは、色味も形も似合わず、年齢にも生活にも合わない、ちぐはぐなものです。
一つめ、前者の性的アピールカテゴリー。すべすべしたりテロテロしていたりの薄手の生地、腰のカーブなんかを強調するフィットアンドフレアのワンピースやスカートやニットなどです。これらの洋服にヒールを合わせて、「スタイル良い」と言われるのが好きでした。いじらしさが高じてもはやいじましく、我がことながら共感性羞恥です。
二つめは、肌触りが悪く着心地が最悪な、色の褪せたパーカーなどです。誰にも会わない時に着ていたものです。自分の感覚が置き去りで、自分のことなんてどうでもいいと思っていたのがわかります。
最後三つめ。自分の体型や肌色にまるで合わない、しかも他のどの服よりも高価な服。逆に、私の年齢や立場で着るにはあまりにも粗末な安っぽく安い服(着ると私の老いと素材のチープさが強調されるような)。どちらも、職場はおろか誰と会うのにも着ていきたくない代物。(がんばって稼いだお金をこんなものに使うって、もはや罰ゲームかイジメ……)
私はやはり、つい最近まで、被虐待児のままだったんだな、と再確認する作業でした。恥ずかしさやるせなさの後は、過去の自分に対する憐れみのの気持ちもやってきて、「やれやれ仕方ないね。まあ、これからがんばろうよ。」と、お茶でも淹れたくなりました。(かつての自己嫌悪からの希死念慮の代わりに、こういう大人の包容力が自然に出てくる時、自分の成長を感じます。)
人を見た目で判断してはいけないというのは生まれながらの容姿のことで、身だしなみや選んで着ているものからは、その人自身がよくわかる気がします。
今もし数年前までの私のような服装をしている人がいたら危うく感じると思うし、ちょっと距離を置こうかなとなります。(思い返すと、その視線に心当たりがあります)
私の前のパートナーが、4年付き合ったあの彼ですが、「最初、すごく頭の悪い人かと思った。」と言ってきた時は苦々しく感じたものでしたが、今では、まあそうでしょうね、という感想です。
今回服を整理している中で強く感じたのは、当時は自覚のなかった私自身の実態です。つまりは、自分から食い物にされに行っていた、つけ込まれやすい状態に持って行っていた、ということです。その根源には、私自身が見捨てた私を庇護下に置いてほしいという願望、自分自身を放棄して他人に全部委ねたいという姿勢。
当時から経済的にも社会的にも自立していて、年齢もすっかり大人の私から発せられるにはあまりにも違和感のあるメッセージで、それが私の気持ち悪さだったのだと、今はわかります。浅い付き合いのうちは常識ある大人として振る舞って(演技して)いたので、距離が近くなってからそんな部分が見えて驚いただろうな、すみません、という気持ち、、
三つのカテゴリーの洋服のほとんどは、ネットサイトやリサイクルショップで処分し、もう着ないけれど思い出のある服だけ残しました。
余裕のあるスペースができ、思いがけずここ数年の総括ができたので、成し遂げた自分をひとまず褒めようと思います。