自分が自分で居られるって事。
自分を憎んで、世間を呪って、他人に暴言吐いて。
誰も信じられない、誰も信じちゃくれない。自分でさえも。
そんな時期がありました。酷かった時期は18〜19歳。自分を傷付ける限界を知りたくて、夜の街をふらふらと歩いた事もありました。
自分ではコントロール出来ない所まで、来てしまったのだと、手首を真っ赤に染めながら思ったのでした。
父と心療内科に通い、定期的に安定剤を貰って、自宅でゴロゴロしていました。
身体の傷は付けなくなった代わりに、心が傷付いていきました。
「お前は碌でもないな…何の役に立つねん」
母親の言葉は冗談でもあり、本気でもありました。
一度だけ、母を全力で押し倒し、首をしめようと思ったけど、馬鹿らしいから
止められて剥がされるまで鎖骨に体重を載せて、抵抗した事もありました。
私が未熟なままでいてしまったのは、母に褒めて欲しかったから、
愛されているって思いたかった。母も未熟なままだったんだ。
不幸な境遇は無知を生み、環境を悪くし、人格が変えられない所まで長く生きてきた事。
私は私を掬い出して、見つけて貰わねば、生きていけないんだと。
0の世界から1へ上がるにはきっかけがあれば、行動すると到達も早いのだろうけど。
鏡も理想化も無かった私には長い長い道のりだったように感じた。
いくら「私の子供だから大丈夫」だと言われても
養われていない自己愛には何も響かない。むしろ、悪い事のようだった。
旦那はそんな私を捨てずに深い所まで降りてきてくれた。
自分も鬱の傾向があって、家から出られなかった事もある、通勤時、何もかも嫌で気付いたら反対方向の電車に乗ってた。
人間はそんなに万能じゃない、出来る範囲で出来る事をやる。
人に期待しない事を学んだから、自分の意思で与えるだけで見返りは求めない。
今なら響く。その言葉が届く。
傍に居てくれて、迷ったら言葉をくれる。
色んな人に自己愛を満たせてもらっている。
空っぽで欠けた器だったのを気付かせてくれて、修復の仕方、メンテナンスの仕方、どうすれば自分でも満たせるようになるかのコントロールの仕方。
今まで遠くて近寄る事さえためらって居た私は、少しでも近寄りたくて、
自分の心と対峙して、言語化する勉強を始めました。
知らない世界の知識、なんとなく見えていたけど文章化するのが難しかった本質。
歪んだ認知でしか世界を見ていなかった、という気付き。
歪んだ依存。
全部、最近になって知った事。
あんなに憎んでた自分が、世界が、こんなに面白く楽しいものだったとは。
過去の自分も大事な私。なんだ、そういう事なんだ。
結局、自分の世界は自分じゃないと変える事が出来ない。
誰かの世界と隣りあっていても、侵食はされない。意見の相違があっても、自分と違う世界の知識だから、けなしたり、陥れる意味ではない。
世界の境界線が不安定な人には要注意。崩れるか飲み込まれるか、どっちにしても隣あう事は出来ない。
マイナスから始まったって、自分を知れば世界が見える。
満たせるように、色んな人に支えられて、世界が広がる。
こんなので満足出来ない。
たくさん学びたい。もっと自分を高みに連れていきたい。
足元で見えない気付きをもっと探って、色んな世界に触れたい。
私が私で居られる事が、何よりも楽しい。
色んな私が居る事が楽しい。
私の中の誓い。
どんなに近い相手でも、その人だけの世界があるのだから、挨拶だけは絶対に疎かにしない。相手との距離を測れるようになれるまで、相手の世界に勝手に触れない。
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