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トイレットペーパーを3cmだけ残さないで。
日常には小さな要求が潜んでいる。
食器を洗い終わったら使ったスポンジは、最低限冷水で流してしっかり絞ってほしいし、排水口のゴミを捨ててほしい。
トイレを流す時は蓋を閉めてほしい。
洗面所の髪は定期的に拾ってほしい。
ゴミ箱は限界に挑まずに定期的に捨ててほしい。
あげればキリがない。(そして水回り率の高さよ)
その中でもトイレットペーパーは大事だ。
母がかつてこんな格言を残した
「トイレットペーパーを替えないところにあんたの人間性が出てる」
もちろん私に対しての言葉だ。
子ども時代の私は非常に面倒くさがりで、トイレットペーパーを替えず、補充もせず、挙句の果てには変えたくない故に3cmほど残すクズであった。
3cmで尻は拭えない。
自分が替えるのも補充するのもサボったことをすっかり忘れてトイレに行き3cmのトイレットペーパーと向き合うことを因果応報という。
そしてそんな子どもが数年後成人してキッチン・トイレ共用のシェアハウスに住み始めた。
5回に一回は3cmのトイレットペーパーと向き合っている。これも、いやこれこそが因果応報である。
3cmのトイレットペーパーと対面する度、叫びそうになる。
替えないのも中々図太い神経だが、3cmは本当に腹立たしい。
3cmのトイレットペーパーをその目に焼き付けた上で、3cm残して去っているのだ。「あー替えなきゃいけないな」と気づいていたという痕跡を残した上で「でも替えたくないから誰かやって」という精神を、その3cmにありありと残しているのだ。
人間性が暴露されている。思考が透けてみえる。許すまじ。
「替えておいてね」じゃないんだ。
てめえが尻を拭うトイレットペーパーはてめえで替えるんだ!
そこまで言うなら、母が私に何度も言ったように「替えろ」と言えばいいじゃないかと思うだろう。無論私もそう思う。
だがこの激しい怒りに襲われる度に考えてしまう。
母がどれだけ3cmのトイレットペーパーに耐えてきたことか。
そしてどれだけ言われても「たかだかトイレットペーパーでしょ、いちいち怒らないでよ」と思っていた、インスタに晒されそうなクズ彼と負けずとも劣らない、かつての私。
あれが思春期だったのかもしれない。あの時の私は「思春期の目」であった。
余談だが「思春期の目元」の出どころはこちらである。思春期を通ったことのある人なら湧き上がってくる何かを感じられるだろう。
閑話休題
つまり何が言いたいかというと、当時の母の気持ちと愚かな自分を思い返すと、あまりの申し訳なさと恥ずかしさで怒りが引っ込んでしまうのだ。
かつてはふんぞりかえっていた己が、「生まれてから一度もトイレットペーパーを3cm残すなどという愚かな真似をしたことなんてないわ」という顔をして、他人に注意しているところを想像すると、もう恥ずかしさで暖冬を引き起こしてしまいそうだ。
怒りを鎮めた私は、3cmしか残っていないトイレットペーパーをピリリとはがし、芯を外し、自分が棚に補充しておいたトイレットペーパーを巻き取る方向を確かめてからセットする。芯はきちんとリサイクルのゴミ箱に入れる。
全てはトイレットペーパーを替えなかった若かりし頃の自分の責任だ。
今になって尻ぬぐいをしているのだ。トイレットペーパーだけに。
(ごめんなさい)
勝手な偏見だが、noteをコツコツ書いている人は、トイレットペーパーが残り少なければ、後の人のために替える、あるいは補充しておくのだろう。
だが、もし、もし仮にトイレットペーパーを3cm残している人がいたら聞いてほしい。
悪いことは言わない。トイレットペーパーを替えよう。トイレットペーパーの芯と思春期の目元を捨てよう。今ならまだ間に合うはずだ。
そういうわけで私は明日もトイレットペーパーを替えるだろう。