40年前、世界のうら側で/内戦下のエルサルバドルと若き日本人写真家
すでにあった、もしくはこれからあるかも知れない「出会い」について少し考えてみるきっかけになれたらうれしいです。
内戦下のエルサルバドルに降り立った若き日本人カメラマン
衝撃だった。今のようなネットのない時代、言葉もわからない、内戦真っ只中の国に行くなんて。エルサルバドルの「危ない」イメージが先行していた当時の私は、どうなってしまうのかハラハラしながら読み進めた。
本の冒頭で、長倉氏は自身のエルサルバドル行きの経緯をこう語る。カメラマンを目指す若き日の彼は、自分が撮りたいのはこんなものじゃない。もっと心に突き刺さるような現実を撮りたいんだ。(※手元に本がないため、引用ではないことに注意。)と東京の仕事をやめ、ひとり内戦下のエルサルバドルに渡った。
しかし、私のハラハラ予想はある意味裏切られることになる。それは、この本の焦点が内戦のいわば「主人公」を取り巻く劇的で悲惨な実情ではなく、むしろ日常を取り戻そうと必死で生活を営むエルサルバドルの一般市民に当てられていたからである。
歴史とはなんだ
そうだ。いくらWikipediaで「〇〇年〜〇〇年は内戦があった」と書いてあったって、実際に戦っているのはほんの一部だったりする。もちろん、市民には市民なりの「戦い」があるのだが…
エルサルバドル内戦について知るという目的はともかく、大学で歴史学を研究していた私にとって、なんだか歴史の考え方をリマインドさせてもらった気分だった。というのも、長倉氏の描く内戦下のエルサルバドル市民のストーリーが、学部の卒業論文で実践したオーラルヒストリーに通ずるような何かを感じたからだ。権威によってつくられる公式文書には残らない、(歴史上では)名もない市民一人ひとりの生活、苦悩、もがき、不満、希望。それらを認識し、(客観性の欠如という落とし穴はあるが)歴史の一部として考察する。そんな視点を、人と、歴史と向き合う際には常に持っておきたい。
とはいっても、比較的最近であるこの内戦は、エルサルバドルの多くの人々にとって「歴史」などではなく、経験、人生の一部なのだ。それを踏まえて、私はエルサルバドルの人々を理解したいと思った。(もちろん、内戦という切り口だけでは語りきれないほどの変化の波に揉まれ超えてきただろうというのは忘れてはならないが。)
初の和平交渉の地となったラパルマ
渡エルサルバドル前の内戦に関する発見は、「第一回目の和平交渉」というキーワードとの出会いで幕を閉じた。エルサルバドルでの私の滞在先はラパルマ(La Palma)というホンジュラスとの国境に程近い山間の小さな町なのだが、そこでは内戦勃発から4年後の1984年に初めての和平交渉が行われたそうなのである。ただそれはうまくいかず、交渉が結実して内戦が終わったのは、結局5回交渉が繰り返された末の1992年。実に、はじめての和平交渉の試みから8年後のことであった。
そんなラパルマだが、長倉氏の『へスースとフランシスコ エルサルバドル内戦を生きぬいて』(2002)にも登場したのである。エルサルバドルの片田舎が、日本人が書いた本に登場するなんて。もしかしたら、向こうで長倉氏が直接会った人がいるかも知れない。どんな出会いで、どんな言葉を交わしたのか。いや、言葉ではなくジェスチャーだったかもしれない。そんな妄想が膨らんだ、エルサルバドル渡航前の「エルサルバドルとの出会い」であった。
【参考】本稿記載の書籍
編集後記
さて、今回は前回に引き続き「出会い」をテーマとして書いてきたが、「歴史」もある意味サブテーマとして登場させてみた。実は私は大学で歴史を学び研究していたのだが、今後もそちらの切り口でいろいろ書いていけたらと思う。(もし興味のあるテーマや本稿に関する質問・意見などありましたら、ぜひコメントをお寄せください。)
本稿を執筆するにあたりいろいろ振り返って、今の時代はありがたいことに多様な出会い方が可能なのだなと思った。それでも最近は、エルサルバドルの片田舎に住みながらアナログにはアナログの良さもあると再認識する日々。それぞれ使い分けながら出会いを楽しんでいきたいと思った。
何かとの出会いは、自分の知識、価値観のリマインド・アップデートだったり、内省の機会だったり、いろいろなものを与えてくれる。好奇心と、問いの姿勢、共感する姿勢を持って、これからもいろいろなものと出会っていきたい。