小説「下水道管理人、始めました」EPⅣ:虚しい心

トエルは直感的に確信した。今目の前にいる人間こそが、あの正体なのだと。

「大丈夫ですか」

トエルは驚かせないように、静かに優しく話しかけた。しかし男はまだ線路をぼーっと無表情で見つめている。トエルが再度話しかけようとしたその時、どこからともなく無機質な音と共に人間と思われる声が聞こえた。

「間もなく2番線に、新札幌行が到着します。白線の後ろ側までお下がりください」

トエルは声の発生源が分からず、周囲を振り返る。どうやら先ほど見かけた文字が流れる箱のような物から発していたようだった。音の発生源が分かって男に注意を戻すと、男は無表情のまま歩き出し、片足はすでにプラットホームから出ており転落する瞬間だった。しかもかなり近くまで高速で移動する鉄の塊が迫ってきている。
彼女はすぐに男を真横から体当たりして転落を食い止める。
鉄の塊は蒸気のような音を出しながら停止し、扉のような機構が動作する。また暫くすると、再び扉のような物は閉まり走り去っていった。

「痛いなぁ……、一体なにをするんだ……」

体当たりし吹っ飛んだ男が横腹を抑えながら、上体を起こす。
トエルはその言葉に少し苛立ちを覚えつつ、食い気味に言った。

「そっちこそ何してるんですか! 間違いなく死ぬところでしたよ!」

そう言うと男は少しおかしな笑いを浮かべながら、静かに呟く。

「あぁ、本当に死ぬ予定だったからね」

トエルは再び男に詰め寄ると、両肩を掴みながら声を荒げる。

「貴方、一体命をなんだと――」

「お前こそ何なんだよ!! ろくに事情も知らないガキのくせに!!」

先ほどとは想像がつかない声量に、トエルは思わず怯んだ。
冷たい風が吹き抜けるホームに静寂が走る。

「……すまない、思わず」

男はゆっくり立ち上がると、トエルに手を貸す。

「ありがとうございます……、私こそすみません」

トエルは手を借りて立ち上がりながら続ける。

「一体、何があったんですか」

それを聞いた男は少し悩んだ後に、自動販売機まで歩きながら手招きをした。トエルが駆け寄ると男は自動販売機を指さしながら言う。

「どれが良いんだ」

しかしトエルは中間界の、それも自動販売機に売られている飲み物については全く知識が無かったゆえに返答に困った。

「お、おすすめを……」

「なんだそれ」

男は硬化と思われる物を自動販売機に入れ、なにやら指で押す。するとピッという音がした後に、下の部分から手のひらほどの円柱が出てきた。男はそれを取り出すとトエルに手渡す。
トエルはそれを受け取ると、火傷まではいかないが突然の熱さにわたわたと右手を左手の間で円柱を行ったり来たりさせる。

「はは、何やってんだほんと」

男は再び自動販売機に先ほどと同じ手筈で、もう一つの円柱を下部から取り出した。慣れた手つきで円柱の上部にあるでっぱりに指の先端をひっかけ、手前に倒すとカシュッと音がした。トエルはそれをこっそりと真似すると、同じような音がした。すると円柱の上部に小さな穴が開き、液体が見える。

「凄い、こうすると中に入っている飲み物を出せるんだ」

その言葉に男はまた唖然とした表情を浮かべながら言う。

「缶を知らない……? いやいや……まさかな」

トエルはその反応を遮るように話し出す。

「そ、それで一体どうしたんですか」

男はまた神妙な面持ちになりながら、近くにあったベンチに腰掛ける。

「俺さ、もう分からないんだ。何が楽しくて何が嬉しくて、自分が何を望んでいるのかすら」

男の足元には、いくつか涙の跡ができていた。

「社会人になって働き始めて暫く経ったある日から、なんか急に分からなくなってしまったんだ。ちょっと前までは、あんなに休日や仕事終わりの余暇をワクワクした気持ちで過ごしていたのに」

男は円柱を口に当てながら話を続ける。

「そんな状態が長く続いたらさ、無気力感が染みついてしまって。寝て飯くって仕事しての繰り返し。……、お前も飲めよ、冷めるぞ」

「あ、すみません……つい」

トエルは男を真似るように、円柱に口をつけ傾ける。すると温かく、香ばしくも優しい甘さが口いっぱいに広がる。喉を通るたびに身体の中から温まっていく感覚があった。

「おいしい……」

「ほんと初めて飲んだみたいな反応だな、まぁココアは旨いよな」

トエルはこっそりと心の中でこの飲み物の名前を深く記憶に焼き付けた。

「そんな状況が長く続いたもんだから、きっといつの間にか心が壊れちまっていたんだな。毎日無味無臭で、むしろ辛い事へ立ち向かう事の多い仕事が中心になってしまって」

男は円柱の中にある液体が無くなったのか、軽く左右に振って確かめるような動作をしながら続けた。

「虚しさに抗う為に行動した時もあったさ。あっちにふらふら、こっちにふらふら。自分の居場所や支えを求めた。でもどれも、違った。そんなある日だ」

ココアを飲み進めていたトエルの手が止まる。

「力なく家を出て駅に向かっていると、何やら黒い影が道でうごめいていた。誰かの影ではなく、明らかに独立した存在として」

男は再び立ち上がり、空っぽになった円柱を自動販売機の傍にあった箱のようなものに投げ捨て、また同じ柄をした円柱を自動販売機で買う。

「その影は俺に言った」

『死はその虚しさを癒し、お前を優しく包み込む。そしてその為の行動は、お前の存在を多くの人間に焼き付ける』

「今思えば、自分と言う存在がこのまま消えてしまうような感じが怖くて、こんな死に方を選んでしまったのかもな。何者でもないこの俺が、どんな形でも誰かの記憶に残ってほしくて。……、迷惑な話だよな、自分勝手で。でも辛かったんだ、自分が灰色の生き方をしている中、彩られた多くの人の中で生きていく時間そのものが」

今この瞬間に死んでいなくとも、死んだ方法や記憶はすでに存在している事にトエルは驚いた。まるで自身の記憶を振り返るように。

「黒い影は……、他になにかしてきたんですか?」

男はまた円柱の蓋らしきものを開け、飲み物を口に流し込みながら首を左右に振った。

「なんか気が付いたら居なくなっていたんだ。でも、その影と出会ってから急激になんかこう、負の感情? みたいなのが湧き出て来た感じはしたな」

「負の感情……」

「それよりさ、お前は学校とか楽しいのか?」

まだ卒業して少ししか経っていないトエルだったが、男からそう言われた時、サリーとバルの姿が脳裏によぎる。

「うん……、2人仲の良い友達、いや親友がいるの」

「親友か、なんか……社会人になると縁遠くなっちまう言葉な気がして、むず痒いな」

男は再びベンチに腰掛けながら、トエルと親友2人の話に耳を傾けた。

***

「あぁ、なんか久しぶりに笑った気がするよ。それどころか、ずっと抱えていた気持ちを吐き出す事が出来て、気分も良い」

曇っていた空から、黄昏色の光が差し込む。静かで無機質な空間が照らされたその景色は、どこか癖になるようだった。
男は立ち上がり、腰を左右に捻ったのちに言う。

「なぁ、すまん。名前だけ聞いても良いか」

「トエル」

「トエルっていうのか、なんだかまた変わった名前だなぁ」

トエルは文句を言おうとすくっと立ち上がると、被せるように男は続ける。

「でも良い名前だな。……、俺は忘れないよ」

男はゆっくりホームの端へと歩き出す。どことなく、晴れ晴れとした表情をしながら。端まで歩くと、男は立ち止まり振り向くとトエルに微笑みながら言う。

「なぁトエル。その親友大切にしろよ。何かで疎遠になるかもしれないけど、そのままにしないでまた繋ぎ止めろ。……、俺にもそんな存在がいたらちょっと違ったのかもな」

男はまた歩み出した。少しずつ、その姿は黄昏の光に包まれるように消えていく。

「……、ありがとうな」

その場には暖かな光と静寂が、ただただ残っていた。

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