【長編小説】「独身記念日」(11)
「独身記念日」(11)
火曜日 二十二時
ツルタは床に平たいクッションを敷いただけのローテーブルとソファの間のスペースで座るのに、いつも通りお尻の一部がぴりぴりと感じ始め、文章を書き進める為の自問の応えにも、もったりとした時間を要するようになってきていた。卓上鏡やメイク道具、文庫本などが無造作に散らばるローテーブルで、遠慮がちに微かに稼働音を出している熱くなったノートパソコンの画面を目を細めて眺めては、次に行う動作は何にしようかと考えている。というより決まるのを待っているという方が近いかもしれない。本当は今日で一項目の場面をざっと書き終わらせてしまいたかったが、話のピースの入れ替えをしていたらもう頭が疲れて回らなくなってきてしまった。けれども、ここで自分を甘やかしてこの時間で寝ると明日以降また疲れたらすぐ寝たくなってしまうので後一時間くらい我慢したほうがいいし、おにぎりでも食べようか、あぁけど今日の身体の疲労感的に食べたら絶対に寝るだろう、残り半ページくらいで終わりそうなのに、ノートパソコンも熱いし、などと話合いが為されたが、結局最終的に両手で頭をぐりぐりと掴みながら、背中にあるスプリングが真ん中だけ窪んだ二人掛けソファに倒れ込んだ。洗い立ての髪の毛が顔に掛かり、その、シャンプ拘っていそうな系統の匂いを思わず吸い込んだ。それは自分の髪がこんなに鼻の近くにあるはずなのに他人の匂いかと思うほど知らない匂いだった。わざわざネットショッピングで買うサロン用のシャンプーだけあって、それなりにいい匂いではあるけれども、ツルタは一瞬感じた居心地の悪さに、疲れているので自分がそれ以上に難癖を付けないように気付かなかったふりをした。
倒れ込んだまま手を組んで両手を天井に向けてぎゅーっと引っ張ってから、身体をごろりと横に倒し、テレビ台のそばの壁に貼ってある六月のカレンダーを眺めた。もう小説作りを始めてから、半年ほど経過しているけれども、それなりにルーティーンを持って続けられていることに、今日は甘えて終わりにしようか。楽しいと思って続けられることは、喜ばしいことだ、と、終わらせる言い訳を付けた。
それからツルタは、ソファに置いてあったスマートフォンを掴んで開き、メールアプリを起動した。相変わらず服屋の広告や以前登録した転職サイトからのメールで埋め尽くされている中から、チェックした方が良さそうなメールが無いか確認をした。
『20XX年6月分 給与明細』というタイトルで、ツルタの所属する派遣会社から今日の十九時に配信されたメールを見つけると、ツルタはすぐにそれを開いて本文を読むこともなくメール内に添付されたPDFファイルを開いた。そこに記載されている給与振込額は、先月とほぼ同じ程度の額だった。それは正社員で八年勤めた前職の月給額とほとんど差がないくらいの金額だが、ここからがっつりと国保と住民税が引かれることを知っていれば、むしろ焦燥感を感じさせる不快な金額だった。
身体の気だるさを感じながら、ツルタはまた四十五度身体を捻って、死に際に犯人を示すメッセージを打つような被害者のフォームでフリーの表計算ツールを使用して自分で作った家計簿を開き、その月給額を六月の収入欄に入力し、投げ捨てるかのようにスマートフォンをソファに放った。
寝ない、寝たいわけじゃないんだよ、とうつ伏せのまましばらく横になっていたが、喉の渇きも、尿意も、起きる気も起きない身体を起こそうとしても、ツルタは思うように力が入らなかった。錘のように何かが身体にのしかかってくるようだ。何の勝負で、どこから手を付ければいいのか分からないが、今ことごとく負けているような、そんな気分になる。眠気と疲れと共に襲ってくる無意識っていうのが、一番タチが悪い、とこの状況になるといつも思う。
「もう、起きたいの」
ツルタは突っ伏したソファの窪んだ座面にそう言った。それから、勢いでソファの上で一回転半身体を回転させ、ぐにゃぐにゃになって立ち上がってからスマートフォンを持ってキッチンに向かい、レンジラックで充電してあったIQOSにスイッチを入れた。
今私を操れるのは世界中で発泡酒とIQOSだけだな、と、スティックを差してその加熱を待ちながらツルタは三脚椅子にへたり込んだ。月の予算を超えてたばこスティックを買えないときもあるが、そういうときにはどうしようもない状態で横になっているしかなくなる。その効率の悪さを考えれば、それは必要不可欠だった。
私は何者でも無いし、隣に立つ人と自分は違う。最近はいつもそう自分に言いかけながら日々を過ごしていたはずなのに、気を抜くと、少し人と関わっただけで、何者かになったかのように自分が威張り出し、たらし込められ、気負って感情的になる。だから疲れる。そういう癖から抜けるなんて、やっぱり無理なんだろうか。赤ちゃんからさせられてきた、人間の心理的庇護活動としての肩書き文化の中では。ぶつくさとそんなことを考えながらツルタはIQOSを大きく肺の隅々まで行き届くように吸い込んでは吐いてを繰り返していると、レンジラックに置いていたスマートフォンに通知が届き画面が点灯した。ツルタはその通知が表示される二秒くらいの間で間髪を入れずにアプリを開き、その後はIQOSの残りの吸引回数も忘れて、画面に釘付けになり内容を確認していった。
『マルコさん にいいねが六件着きました!♡
理想と近かったらダブルタップでいいね♡︎しましょう!』
『ショウさん 29歳 東京
はじめまして!友達に勧められて初…』
『サトルさん 31歳 神奈川
アウトドアとお酒と動物が好きです…』
『ヒロアキさん 33歳 東京
普段は渋谷や新宿にいることが多い…』
…
…
詳細を開き、メッセージに何が書いてあるかをツルタは一件一件確認していった。五番目に開いた、カズさんからのメッセージで手を止めると、ツルタはそこに書かれた文章を何度も繰り返し目で追った。
「初めまして!
マルコさんの写真を拝見して、めっちゃお洒落で雰囲気タイプだったのでいいねさせてもらいました!正直な感想ですみませんw
住んでいる場所も近いですし、好きなアニメも同……」
34歳、千葉、会社員(営業)、年収400〜600万、身長173、アパレルメーカー勤務、数年前に彼女と別れてから趣味が増えた、句読点や顔文字から伺える雰囲気、スーツ姿で何人かで撮った写真の周りの人をモザイクで隠した写真のカズさんの写真、などを観察すると、ツルタは終わりかけのIQOSをまた思い切り吸い込んだ。気が遠くなったが、ツルタは頭をぐるりと回して天井を見上げて想像した。頭からつま先までふわふわとしたのちに、身体中の毛細血管まで血液が行き渡るような暖かさに似た感覚を感じ、いぇーい、六人もゲットー、と天井にへらへらと浮かれた声を聞かせた。それから他の人のメッセージの確認も終え、二本目を吸おうと出していたスティックを箱に戻し入れて、外の空気を吸おうとベランダに行こうと立ち上がったときには、すっと全身の気だるさが消えて無くなっていた。そういえばシマサバさんとケーキ屋に行っても、この感覚にはならなかったな、とふと思い出し、それを少しだけ不思議に思った。
「ごめんね。そういう目的じゃ無いんだ」
ツルタはそう呟いてアプリを閉じ、ベランダへ移動しようとすると、スマートフォンは振動と共にまた新たな通知をツルタに出した。それは最初、間違いであるかのように思われるほど久しぶりに見た、中学時代の同級生であり大学でも同じクラスだった松木からの電話だった。が、名前が表示されるということはまだ連絡先に残っているのだよなと疑い半分に、ツルタは振動し続けるスマートフォンで電話に出た。
「独身記念日」(11) 終わり