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【長編小説】「独身記念日」⑽

「独身記念日」⑽

「俺今度のスタジオに、ウクレレ持って行こうかなぁ」
 四杯目のレモンサワーを一口で一気にジョッキの四分の一程飲み込んだ酒井さんは、いつものようにもの柔らかに言った。お酒を飲むと特に陽気になるが、飲んでいなくとも普段から明朗な人で、気分を害するものなどこの人の生活の中で一つも無いんじゃないかと話していると想像してしまう。
「酒井ちゃん、買ったって言ってたやつ?いいじゃん!」
「うん。音出すだけでほんと癒されるの」
「なんかウクレレで曲やりたいの?」
「やれたらいいけどねぇ〜。いい曲があれば」
「ウクレレと言ったら、猫の恩返しじゃないですか?」
 シマダはそう言って、すぐに動画サイトでその曲を探した。 
「あぁ〜なんだっけ、つじあやのの曲でしょ?てかウクレレでよく思い付くよね、島田くん」
「実は俺も、ウクレレやりたいと思ったことあって、前に調べたことあるんすよ」
「そうなの?じゃ持ってったとき弾かせてあげるね」
「やった。あ〜そうそう、風になる、でした。」
 ストリングスから始まる曲に四人は耳を傾けると、あ〜これ、耳コピでいけますかね?四人で十分いけそうですね、などと言い合い、結局各自持ち帰りで練習してくることになった。スタジオに行くのはシマダの日々の楽しみの中ではトップ5に入るほどだったので、そこにウクレレまで追加されるのは考えただけでうずうずとした。元々やっていたギターの武城さんと酒井さん、ベースの富岡の力量がかなり大きいお陰が、セッションするのは癖になる程気持ちよくて、最初初心者だったシマダはこの四人でスタジオに行くようになってから、すぐに電子ドラムを自宅に購入して、相性が良かったのかすぐに習得をしていた。
「島田くんできそう?」
「大丈夫です!落ちてるドラム動画見て練習するんで」
「まぁ適当にやってみよ、俺もまだウクレレそこまで触ってないし」
 シマダはスケジュールアプリを開いて、スタジオに行く日のメモに待ち合わせ時間と、”風になる”を入力して保存すると、その日の欄には予定が入力されたという印の黒丸が表示された。続けて何気なく、まばらにある黒丸印の一つ、また一つと開いて内容を確認してみる。来月前半にかけては週に一、二回は入っている飲みの予定に、今月末は後輩たちとインディーバンドのライブ、来月にはスタジオ練習に加えて、年に一度の大イベントであるロックフェス。それらがついにもうすぐまで迫ってきているのに、やはりシマダは鼻歌を奏でたくなった。それから、一つだけ入っている、わざわざ入力するときに丸印を赤色に変えて目立つようにしておいた明日の予定は、開かなかった。早田さんがシマダを飲みに誘ったときの、あの有無を言わさない上目遣いがシマダの目に浮かんだ。積極的なのは嫌いじゃないんだけど、俺、割と充実してるんだけどなぁ、と心の中で呟いてその赤丸に向かって首を傾げた。
「カレンダー眺めちゃって、シマダくんは大事な予定でもあるの?」
 酒井さんが、あってもなくてもどっちでもいいんだろうと分かるくらいの気の抜けたトーンでシマダに聞いた。
「いや、スケジュール確認してただけっすよ」
「そういえばシマダくん、こないだランチした時に言ってた彼女とはどうなった?」
 武城さんに聞かれ、それ聞いちゃいます?という内心が表に出てしまわぬように努めてシマダは、あぁ、もうよくわからない感じですぐ別れちゃいました、色々ミスマッチで、と苦笑いをした。その女性と出会うことになった飲み会を開いてくれた人を、紹介してくれた富岡にも話をしていなかったので、言ってなかったよなぁ、とシマダは富岡にも言った。
「そっか、まじか。まぁけどいろんな人見て行ったらそのうち見つかるよ、いい人」
 富岡はそう言ったが、穏やかな声のトーンとは裏腹にその目の奥に、かすかに嘲笑のような色がチラと映ったような気がしてシマダは腹の中央の当たりが熱くなった。が、すぐに、この部屋の上の方から、"彼女持ち"や”婚約者有”のタグも外れたただのデフォルトである自分を見下ろしたような気になり、それが何とも心許ない姿なのに、すぐに力が抜けた。その聞き覚えのある台詞は、シマダがよく富岡が女性関係に上手くいかない時に決まって言っていたことだった。きっと富岡も何か自分に思うことがあったのだろう、こんな様子なのだから。
「もし紹介して欲しいなら、シマダくんの為に探して来るよ」
「武城さんは顔広いですもんね。どうしてもの時は、お願いします」
「シマダくん、ガールズバンドも好きだから意外と若いああいう子も好きそうじゃん」
 武城さんは、ちょうど鰹の塩たたきをようやく運んできた、先ほどと同じ若い明るい髪色の女性の店員を指差した。
「いやいや、適当に言わないでくださいよ。自分は、一緒にいて色々合う人がいいんです」
「そっかぁ。シマダくんは色々合理的なのかね、考え方が」
「ん〜、どうでしょうね」
 特大の盛り皿に、四人前の切り身がいくつかの薬味と共に分厚く添えられたのがテーブルの真ん中に置かれ、女性の店員は隣の卓の客にもそうしていたように媚を含んだ撫で声で付け塩の説明をし、そして戻っていった。シマダたちは一旦話を終わりにしてから鰹の塩たたきを食べるのに取り掛かった。
 切り身は加減の良い焦げ目が焼き付けられていた。南国の空みたいな碧い艶が生身を纏うように煌り、皮下組織を断ち切ったばかりの気配の残る断面には心地好さそうな湿度が漂っていて、いつもと同様に旨そうな見た目をしていた。一目散に手を付ける武城さんと酒井さんの感嘆の声と、富岡の「美味い、美味い、」が聞こえると、それがシマダの中に広がるように雑踏の音に解け出ていくみたいに聞こえて、反芻していった。シマダは一切れを箸で掴んで醤油に軽く浸し、そのまま口にすると、ゆっくりと咀嚼を進めた。旨みに目を見開き、最初はそれもいつもの通りだったのが、咀嚼を進めるにつれ疑義をただすかのように不安になった。店の店内を見渡したけれど、今までと何も変わらなかった。おかしかった。今日ここに来るのに特別いつもと違う感情もなかったのに、何かしっくりこなかった。飲み込んでもすぐに味を忘れるみたいに、感度が薄いのだ。旨い味が感じられるのはほんの一瞬だけ。お冷を口にして一息付くと、気付けば身体全体が重だるくなっていることにシマダは気付いた。昼に食べたのは軽食だったから胃もたれするはずもない。シマダは不思議に思いながら、シマダはそれ以降の四、五切れも、その後やって来た鯛茶漬けも注意して味わったが、やはりこれまで通りではない薄い感動しか味わえないことに心底がっかりとした。それを誰かに打ち明けることもなく、この会はお開きになった。
 六本木通りの坂の途中に位置するこの店を出ると、富岡と武城さんは六本木一丁目駅方面へ、シマダと酒井さんは六本木駅方面へ向かう為、それぞれ反対方向へ向かって別れた。チャリならギリギリ漕いで登れるかどうか、足は長いが筋力はないシマダは多分すぐにチャリを降りるだろうくらいの見た目よりきつい勾配の坂を、シマダたちは歩いていった。時刻が十時半になる通りは、飲み帰りのサラリーマンか夜遊びに向かう外国人たちがぱらぱらと見受けられた。酒井さんは、その若返りした童顔に身体だけ取って付けたような、中年らしい少しばかり前に出たお腹を中心に手足をパタパタと動かして歩いたが、歩幅が小さく、更にお酒が入っているので歩くのがゆっくりだった。長身のシマダはその歩幅に合わせてかなりゆっくりと歩いたが、ちょうど息が上がらない具合だったのでまぁ良かった。
「今日も美味かったね。お店の予約してくれてありがとう。シマダくんは色々気が遣えるからいつも甘えさせてもらっちゃってるね」
 酒井さんはシマダを見上げてそう言った。
「あぁ…、そうっすね。いやいや、好きでやってるんで全く問題ないですよ」
 シマダは歩道に等間隔に植えられた、形の揃った青々しい銀杏の木々を眺めながらそう言った。ふと、街灯のポールと同じくらい幹が真っ直ぐなのに、都心では街路樹さえオーディションがあるのか、と頭の片隅に浮かんだ。
「そういえばさ、仕事の進路は決まったの?武城くんからちょっと聞いたよ。チームが解体になるって」
 酒井さんはそう言ったのに、シマダは、そうなんすよ、とりあえずは営業に吸収されるリーダーたちと一緒に、自分も付いていこうかと思ってるって話はしといてはありますけどねぇ、としまりのない口調で答えた。
「そうなんだ〜」
 それから酒井さんは、両袖同士を結んだみたいに腕をぎゅっと組みながら、慎重に話し出した。
「シマダくん、元々出版社希望だったんでしょう?それで今は、広告営業も熟知してるんだから、出版業界でもいけそうかもとか思わない?シマダくんは書籍全般にめちゃくちゃ詳しいし、勿体無いなぁって、人事部の端くれから見ると思っちゃって。勝手にね。もう長く今のとこでキャリア積んでて自分でも色々考えてるとは思うけど」
 端くれって、もう課長ですけどね、とシマダは一先ず突っ込むことにした。酒井さんが言うのはほとんど自分の考えていたことと変わらないと言っていいことだったが、それを今一から語るのは体力も時間も無さそうだと思った。シマダは酒井さんと二人になるときは大体漫画の話をしたり、一緒に本屋に寄ったりしていたから、恐らくそういう様子から言ってきてくれているのだろうと、シマダは思った。
 また考えを巡らすように酒井さんは頭をぐるりと回すと、一歩ずつゆっくりと歩きながらシマダに言った。
「あのさ、この間、会社の営業の人から人を補充したいっていう話が来てさ。うちのサイト見てるだろうから知ってると思うけど、商材は漫画中心だし、きっとシマダくんが好きな作家とかとも、直接取引も出て来るだろうし、まぁうちの営業職だとクロスメディアみたいに新たに生み出す系の企画は殆どしないんだけど、もしかしたら出来る可能性は、この業界に入れば生まれると思うんだよね。興味あったりする?」
「するはしますけど、だったら紹介してもらえるんですか?」

「うん、そのつもりで話してるよ」

「まじすか」
 シマダが大きい声でそう言ったのに、そばを歩く人は顔を上げてシマダ達を通り過ぎたり追い越したりした。ここで新たな選択肢が出てくるって、それはもう鬼が出るか蛇が出るか、ですね、とシマダがぼそぼそと呟くと、酒井さんには聞こえなかったようで、まぁ他の条件もあるからそれを踏まえて聞いて欲しいんだけど、話した。

「やれたらいいとは思いますけどね。元々やりたかったクロスメディアは、全部受からなかった時点で諦め付けちゃってたのもありますしね。けど今の仕事も楽しいっちゃ楽しいですよ。環境もいいし。後、給料面がでかいですかね」
「そうかぁ〜、まぁ、聞く話だとそっちのが一、ニ割はうちより多いみたいだしねぇ。けど、一応伝えておこうかなって思って。俺も仲良い人が来てくれたら楽しくなっちゃうし。それに、結婚するにももう少し時間かかりそうでしょ?それなら動きやすい今のうちに、仕事の拠点を見直すのもいいんじゃいかなって。富岡くんも無事に既婚者になったから、ひと安心でしょ?」
「あはは、なんか俺、酒井さんに見透かされてるじゃないですか」

「見透かしてる?じゃあそう言うならそうなのかな」
 酒井さんはそう言って見つめているシマダの目から、シマダを取り巻くあらゆるものを眺めてそれらを包み込むように話をしているようだと、酒井さんの目を見てシマダは思った。この人がエンジニアだった時代には、もっと閉じ籠った印象でよく「管理職にだけはなりたくない」と語っていたが、あるとき急に人事に入り、案の定管理職に抜擢されて一定の時間が過ぎると、どこか脱皮したような安定感を携えたように酒井さんに変化を感じたことを、シマダは今思い出した。

 交差点まであと二区画手前に差し掛かると、ぐっと勾配が増しシマダは息が上がった。すぐ横を走る、首都高の高架下の車道の音が大きいのもあり、そこそこのボリュームで話さなければならないことがシマダには憚られた。吸った酸素が全く体内に行き渡らないのが実感できるように気が遠くなったが、それからいくつかの思考がシマダの頭を占領した。

 周囲は口に出さないけれど、自分は迷子になっている、とも言えた。会社はベンチャーとはいえとっくに安定フェーズに入ってるから良くも悪くもこなすことも多いし、個人の成長だって今の仕事じゃ飛び抜けるようなことは見込めなかったし、正直やりたいことを考えても殆ど既出の人並みなものだとわかっていた。目的がないと自分の力以上は発揮されない。ただ、入ったからには給料のいい広告営業本部にいたいと思っていた。元カノと別れるまでは、自分の進路はそれでも良かった。マンションを買ったのだって、二人で住む為のものだった。

 けれど、それが自分の為だけになった場合、どうなるのだろう、というのはわからない。
 息苦しさのせいで、悩ましいことがどんどん頭に浮かんでくるのは自分だけだろうか、とそれを振り切るようにシマダは酒井さんを見たが、酒井さんは、シマダが見たときちょうど息を上げながら立ち止まって、空を仰いで棒立ちしていた。シマダも見上げてみると、見えるのは首都高と立ち並ぶビルの間の味気ない紺鼠色だけで、見上げたのに更に体力を使ったことを少し後悔し、再び歩き始めた。調子を取り戻そうと思っても足が生えたように思考はまだ続いた。迷子になっていることも、したいかどうかも自分でも定かじゃない婚活を続けるのも、別れを告げられた自分のせいじゃない。そういう成り行きになったからなのだ、と思考は叫んだ。

 結婚、しかも地元の国大時代から十三年になる付き合いの彼女への申し出など、一年前の自分にとっての必要さで言えば順位は低かった。女性関係以外の、友達先輩後輩とも仲が深まり楽しい時間でもう何年も潤いがあったからだ。上京するまで長らく続いた非モテ時代を経て、やっと社会人で、日の目を見ることもできた。二人で会うのも月一、二月に一度のときだってあったしセックスなんて記憶にない。それでも、彼女に何かあったときにはすぐにそばにいるようにしたし、記念日とか誕生日は欠かさず祝っていた。大切な存在だとは思っていた。他の女とは遊ぶと言っても食事だけでそれ以上のことはしたことがない。所詮そのくらいの、平和主義的範囲の中の男だった。

 今考えれば、そういう関係が続いていても彼女は楽しそうだった。その上で彼女が別れを選んだのは、きっとたまたま、彼女が別れ間際に一番必要としていたタイミングで自分が結婚のカードを持ち合わせていなかったからだ。そんなのよく男女分析したSNSの投稿で見かける、将来を真剣に考えられない男でも、結婚に固執した女でも、どちらでもない。ただすれ違いをしただけなのだ。だからだ。

 坂を登りきった。シマダは頭がくらくらとした。家でたまにしかやらない料理で出てしまった大量の洗い物をしながら、風呂上がりに気になってしまった洗面所や脱衣所の汚れを掃除しながら、一人で黙々と何かしているとき何度この話を考え浮かべては、自分を納得させなきゃならないのだろうか、と、シマダはもううんざりとした。二人は交差点の横断歩道の前まで着いたが、お互いに何か発することはなかった。どこから来たのか分からない車が何台も目の前を過ぎては、また思うままにどこかへ向かった。

「そんな話してもらって、ありがとうございます。細かい条件の話も今度聞いてみたいです」
「おう、いいよ。電話でもいいしまた連絡して」
 呼吸を整え終わった酒井さんが、得体の知れない無数の街中のライトに照らされて真剣な顔でそう言った。
「ありがとうございます」
「あぁ、それとさぁ」
「シマダくんは勘がいいから、先を見越して悩んだときは、一旦何も考えないっていうのもお勧めだよ。休憩してね」

 いきなり説教しちゃった、ごめんね、と酒井さんはまた何一つ心配事が無さそうな様子で笑った。シマダは、じゃあとりあえずドラム練習から始めようかな、と笑ってみせた。

「独身記念日」⑽ 終わり


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