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「言語化」はそんなに大事なのか?

どうもこんにちは、STUDIO ZOONのムラマツです。
先日、mondでこんな質問をいただきました。

ムラマツさん、いつもこのmondでの回答、面白く拝見させていただいております!今色んな編集の方などに意見を聞いてみている事があるのですが、まず言語化って大事ですよね。

自分は漫画家をめざしており、編集の方と打ち合わせを重ねているのですが、どうも自分は言語化というものが本当に不得意なことが分かりました。伝えたいことはあるのですが、間違った言葉や無理やりその言葉に意味を集約させてしまったようなものとして伝わってしまいます。

読者に対しても、伝えたいこと・描きたいことはあるけれどネームでうまくいっていない、何が描きたかったのか言語化しましょうと言われましたが、なかなかうまくいきません。「そもそも言語化できない感情があるから、物語として、漫画にしてるんだけど?!」と思ったりもしますが、まあまあと自分を諌めています。

言語化という言葉そのものが、なにか色んな意図とか様式を集約させてしまっていて「じゃあ言語化するための方程式とかないんですか?!」と焦っています。まず自分の編集さんにきいてみたのですが、どうも当たり前にできるからこそ改めて説明するのが難しい感じでした……

ムラマツさんは言語化の権化な気がしていますが、なにかご自分の中で、言葉にする時の方程式などはありますでしょうか?お聞かせ願えたら、幸いです。

mond

まず「言語化できない感情があるから物語として漫画にしてるんだけど?!」という思いは100%同意します。全部言葉で説明できるなら物語は必要ないですからね。僕自身「御託はいらねえ!すげえ絵と物語で俺をぶっ飛ばしてくれ!」と基本的に思ってます。

特に何ができるわけでもない編集者は、絵で表現できる漫画家さんと相対するために言葉を磨かざるを得ません。自然と言語化力は高まっていくし、そのおかげで制作上の難局を乗り越えられることもあります。

が、やっぱり作品そのものが放つパワー、あるタイミング・ある文脈で放り込まれる主人公の表情一発……の前には、言語化なんてクソどうでもいいな、と思っている自分もいて、言語化というものに対してまあまあアンビバレントな感情があります。

この質問にかこつけて言語化について考えてみることで、そんな自分のモヤついた感情を一度お焚き上げしたいなと思います。質問にあった言語化するための方程式とかはない気もするんですが、脳内でなんかの回路は駆動させている感覚があって、その回路がどう働いているかはちょっと整理して話せるかもしれない、と思います。

うーん、うまくまとまるかな…。
ま、とりあえずやってみましょう。


言語化のいいところ

まず言語化のいいところを考えてみます。色々とあるのですが、最初に浮かぶのは形なきものに形を与えられる点です。

最近気付いたことなのですが、仕事のミスの大半は「まだ名前のついてない領域」で起こります。名前のついている領域、例えば「支払い処理」ならば、ミスが起こったらアラートが立つように組織やシステムが組み上がっているので、基本はミスが再現されないようにできていますが、名前がついてない領域で起こったミスはミスであることすら気づけません。なんとなく違和感を感じながら放置され、なんとなく状況が悪くなっていきます(なので、ミスが起こったと気づいた時に最初にやるべきは、その現象や領域に名前をつけることです)。

僕は趣味で柔術という格闘技をやっているのですが、柔術にも「名前のついたポジション」と、それらの中間の「名前のついてないポジション」とがあります。名前のついたポジションにはやっていいこと悪いことが明確にありますが、ついてないポジションにはありません。そして、強い人ほど名前のついているポジションの領域が広いためミスが少なく、経験が少ない人ほど名前のついてないポジションの中で何をやっていいかわからずにミスをします。

こんな感じで、物事には「名前がついているもの」と、それらに挟まれた「名前がついていない中間」が存在します。そして名前がついてない間はそこで起こることの良し悪しの判別ができません。この領域に名前を与えることでその良し悪しを判別できるようになるのが言語化の第一の効能だと思います。

そして、物語とはまさに「名前がついてない中間」を描くために存在しています。ある物語を通して、自分が実は感じていた感情に気付かされた、未知の感情を味わった、という経験は誰しもあると思います。作家さんは世界観・キャラクター・ストーリーを練り上げることで、このような体験(=感動)を生み出していくわけですが、その精度を上げたり理解しやすいよう全体を構成していくためには、やろうとしていること伝えようとしていることに言語で名前をつけていく必要があります。

例えば「エモい」という言葉が登場以前には「あるシーンをよりエモくする」ことは原理的に不可能でした。例えば「エモい」という言葉がない世界で、僕が編集者としてあるシーンをよりエモくしてもらおうとした場合「えーっと、なんというかもうちょい切ない感じで、キュンとくるような、でも悲しいような、でもちょっと恍惚感もあるような感じで…」みたいになります。エモくなる可能性もありますが、本質的にくじ引きです。

しかし、「エモい」という言葉がある現在、「あるシーンがエモいか、エモくないか」は多少の解釈の違いはあれどみんなが判別ができるし、よりエモくするための具体的な方策を考えることもできます。さらに「冒頭にはエモいシーンを持ってきましょう」というように言葉で形を与えることによって構成が可能になる、という面もあります。

マンガ編集者の実務的な面で言うと、物語という「名前がついてない中間」を描こうとしている作家さんに対して「バーンと思いの丈ぶつけちゃってください、バーンと!」と送り出すことも間違いではないのですが、失敗確率は高まります。作家さんの話を聞いて「なるほどなるほど、つまり主人公はこういうことをしたいこういう人物ってことですね。ライバルは一方こういうポリシーを持っているように話を聞いてて思いました。その二人が対立するってことは全体としてこういう対立軸とテーマが見えてきますね。ってことは、こういう順番で見せるとそれがはっきりしそうですね」等と一つ一つのパーツに名前をつけながら、ある程度組み上げてから送り出した方が、手戻りや修正が少なくて済む可能性が高いです。

よくない言語化

次に「よくない言語化」について考えてみます。

まず「エモい」のような既存の便利な言葉をその定義を考えずに安易に使ってしまうことがあるでしょう。例えばある映画を見て浮かんだ心象を「エモい」の一言で片付けてしまったら、そこから先はもうありません。何を感じたのか、なぜそのように思ったのか、そう感じた私はどういう人間で、この作品は世界や人のどういう一面を捉えているか……みたいな深掘りや複雑な感情が捨象され、「はい、エモかった!終わり!」になってしまいます。

次に「すべて言語化できる」と考えたり「するべきだ」と強要することです。マンガ制作の現場でもやはり「かなり打ち合わせをしたけど、ここから先は実際に描いてみないとわからない」というラインは存在しますし、そこは尊重すべきです。物語の効能とは「名前がついてない中間」を描くことで未知の感情を喚起させ感動を生むことにあるわけですが、逆に言えば「言葉にしちゃったらおしまいよ」でもあります(まさに「そもそも言語化できない感情があるから、物語として、漫画にしてるんだけど?!」ですね)。

よく「キャラクターが作品のテーマを直接語るのはよくない」と言われるのは、言葉にならない感情を描くことで生まれる感動を、言葉にすることでただの説明にしてしまっているからです。

言語化は地図作りに似ています。地図にすることで迷うことを避けられますが、「地図自身が世界」というわけではありません。が、名前をつけるとあまりにわかりやすくなってしまうため、地図自身を世界だと錯覚してしまうことがあります。「どうです、このスイスの美しさ!」とスイスの地図を見せられても「まあ、確かにスイスだけど…」となる。間違ってはないが、空気感や香りや人々の雰囲気や温度のような「膨らみ」がなくなる。そして、人がわざわざ高い金を払って海外旅行に行くのはこの「膨らみ」を感じて感動したいからなわけです。

物語も同じで、読者は膨らみこそを楽しみに来ています。作る側は迷わないように地図を持っていても、その地図は人に見せず、膨らみだけを見せる。こと物語に関して言語化は裏方であるべきです。

ここまで書いて、自分が言語化を重要と思っているような、どうでもいいと思っているような…という感覚を持っていた理由がわかりました。諸刃の剣というか、使い方次第ではよくないこともあるからですね。

以上、まさに言語化することで「モヤついた感情のお焚き上げ」はだいぶ済んだので、以降は自分が普段どういう回路を使って言語化をしているかについて考えていきます。

回路① 「自分で言葉を定義する」

僕は言葉の定義を考える癖があります。昔からそういうところがありましたし、編集者という仕事をやることでその癖が加速しました。

一例として最近 自分で定義した言葉をいくつか挙げてみます。

・エモい 相反する感情を含んだ複数の感情が同時に浮かぶ感覚
気遣い 相手の負担を軽減する工夫
文化 集団で共有している「〇〇しないと気持ち悪い」という感覚
ドラマ ひとつの感情しか通過できない瞬間
大人になる 感情と事実を分けて考えられるようになる
・王道の 思考が停止した
・説教くさい キャラクターの魅力より作者の主張の方が勝っている状態
エンタメ 「人と繋がろう」という意思が形を伴っている状態

特に何かのために定義してるわけではありません。定義がうまくハマって納得する感覚が気持ちいいから癖になってるだけです。ただ編集者という仕事をしていると、作家さんとコミュニーケーションを取る時に役に立つな、と思います。

例えば「このシーン、もっとエモくできそうと思うんですよね」と言ったとして。「エモい」の自分なりの定義を持ってないと、実はめちゃくちゃフワッとしたリクエストをしているんですよね。便利な言葉で無意識にコミュニーケーションをサボってる。

よく作家さんから聞く編集者への不満に「あの人、『溺愛モノが人気なんで溺愛モノにしてください』しか言わないんですよ。」みたいな内容のものがあります。これは溺愛モノを勧めたことが悪いわけではなく、「溺愛モノが人気なんでそういう企画にしたいんですけど、溺愛ってなんなんでしょうね?私はこう思うんですけど、〇〇さんはなんだと思いますか?」というコミュニーケーションをサボってることが良くないのです。

こういうコミュニケーションを続けていくと、必然的に「溺愛もの」に対するそれぞれの定義が生まれます。そして、それはお互いの来歴・立場・考え方・感じ方が反映されたものになり、その交感をすることでお互いの中に深い納得感が生まれます。言語化の究極の目的はまさに「納得に至ること」だと思います。

回路②「構造を考える」

これは自分の考え方の癖だなーと思うのですが、「なんでも現象として捉えて背後の構造を考えてしまう」ところがあります。

例えば、飲み会に感じの悪い人がいて、面と向かって嫌なことを言われたとしましょう。たぶん、普通は「なんて嫌なやつなんだ!」と感じると思うし僕自身も嫌ではあるのですが、それ以上に「この人が、このタイミングで、こういう発言をするという現象は、どういう構造から起きてるんだろ?」と、その現象の成り立ち自体に興味が湧いてきます。(口さがない同僚や友人にはこういう部分を指して、変態・心がない等と言われます)

マルクスは経済・産業などの「下部構造」が、政治・宗教・文化などの「上部構造」を規定すると考えていましたが、それに似た感覚です。自分や他人が「そう感じ」「そう思い」「そう行動する」ということは、その下に何らかの構造があるはず……それを考えるのが好きなんです(告白)。

例えば、僕は講談社からサイバーエージェントという会社に転職したのですが、それぞれ全く違う文化やルールを持っているし、従業員は違う言葉を話し、違う考え方や感じ方をします。そして、それぞれの会社が置かれている市場や事業構造の違いを知れば知るほど、「なるほど、この構造の違いがそれぞれの文化や従業員の考え方の違いとして現れていたのか!」と納得いくことが多いです。

マンガの話に戻すと、あるキャラクターのちょっとした立ち振る舞いを見て「この状況でこのキャラがこう立ち振る舞うってことは、ここはこういう組織で、こういう上下関係があるのかもしれませんね」等と感想を言うと、そのシーンを描いた作家さん自身が「なるほど、確かに!」となることがあります。作家さん自身なんとなく感覚的に捉えていたがほぼ無意識だったディテールから、構造と因果を炙り出して世界観・キャラクター・関係性をよりしっかりと掴んでいく……特に企画立ち上げ初期の打ち合わせではそういうことを中心的にやっていると思います。

その他にも、メールの文章の書き方、服装や髪型の選び方、クセや言葉遣い……などなど、とにかくどんな現象もその下側にある構造が表現されているだけ、と思ってます。(そう信じている、というより、そう考えた方が色々と発見があって面白いからそう考えている、ってだけですが)そして、その構造を言葉で人に伝えると「なるほど〜、言語化すごいですね」と褒めてもらえたりすることもある、と。

ここまで書いて確かに変態感あるなと思ったんですが、この考え方をしていると、自分や他人の行動に何かまずいことがあっても「構造を憎んで人を憎まず」の精神で許せる+感情に振り回されなくなる+時に構造にアプローチして問題解決ができるので、わりかしオススメです。

回路③ 「具体化して伝える」

さて、回路①と回路②は「抽象化して理解する」という意味でほとんど同じことをしています。何かを「理解する」には抽象化するだけで十分ですが、「実感する」ためにはもう一度 具体化することが重要です。

「理解する」と「実感する」の違いは「心が動いているかどうか」だと思います。そして、心は具体的なディテールでしか動きません(以前 同じようなことを書いてました↓)

実際、物事の構造を抽象化してロジカルに説明できる優秀なビジネスマンは数いれど、具体化して心が動くように伝えられている人は少ないな〜、と感じます。最後に具体化というひと手間をかけられるかどうか……これがめちゃくちゃ大事です。

具体化のポイントは次の3つですかね。
・ディテールを省かない
・相手に合わせたたとえ話をする
・ストーリーにする

こうやってサマると普通のこと言ってるというか「まあ、そりゃそうかな」って感じになるので、実感が伴うようになるべく具体化しつつ話します。

③-1 「ディテールを省かない」

例えば以前書いたこの記事で僕は以下の表現をしていました。

めちゃくちゃお金がなくて制作費にも事欠く状況のようです。どれくらいお金がないかというと、通話中に平気でシャットダウンする交通事故でバキバキのスマホを使い続けています。

「アニメーターの田中くんがお金に困っている」という説明をしているくだりなのですが、「通話中に平気でシャットダウンする交通事故でバキバキのスマホ」という、「なくてもいいがあったほうが伝わる」ディテールを入れています。思えば自分はいつも人に何かを伝えようとする時、無意識に「それが最も象徴されているディテール」を脳内検索しながら話したり書いたりしています。

作家さんを見ていても思いますが、物語作りやトークが上手い人(=伝えるのが上手い人)は、構造が象徴されているディテールに敏感です。

ディテールにめざとい人のマンガは「この表情、このやりとり、この服の着方…キャラや関係性が表れてるな〜!」という感じ(=キャラが生きている感じ)が伝わってきて面白い。「意地悪な人ほど面白い作品を描く」と言われたりしますが、意地悪=象徴的なディテールを見逃さない視点がある、ってことなんでしょうね。

③-2 「相手に合わせたたとえ話をする」

mondでたまに質問に答えているのですが、そこからの回答をざっと3つ引っ張ってきました。これらの回答に共通している点があります

それは料理をたとえに使っていることです。mondは質問文だけで相手のキャラクターが見えないので、誰にとっても汎用性が高いたとえとして料理はよく重宝しています。

これまで色んな職種やバックボーンの人たちと接してきて感じるのは、みんなそれぞれ違うアナロジーの中で生きているということです。ゲーム開発の仕事を長くしていたある人は、「今朝、子供が熱を出すというイベントがあって…」等と日常生活で起こる出来事すべてを「イベント」と表現していました。野球好きのおじさんは業務上の様々な状況を、野球でたとえて表現し、理解します。相手がどういうアナロジーを使っている人なのか、を意識して言葉を選べると より伝わりやすくなると思います。

③-3 「ストーリーにする」

最後に、業務上で実際にあった「ストーリーにする」ことの重要性を痛感した実例を挙げさせてもらいます。

僕は今 Webtoonの編集者を主にやっているのですが、Webtoonをやるうえで非常に大事なことは「今の読者に向き合う」ことだと思います。マンガの経験が豊富な編集者も作家さんも、ついつい「今のWebtoon読者」ではなく、「(自分自身を含めた)マンガ読者」に向けて作ろうとしてしまいがちです。そうすると結果的に今の読者を軽視することに繋がります。

歴史を振り返れば、テレビが現れた時の映画業界のリアクション等にも見られるのですが、伝統的なメディアで育った人は新しいメディアをどうしても軽視してしまう。これは伝統的にマンガが強い日本において、Webtoonをやるときの一つの障壁と言えるでしょう。

が、この軽視の感覚は無自覚な分、なかなか根が深いです。作家さんに「今の読者に向けてしっかり作りましょう!」とただ言っても「そうですよね、気をつけます」といまひとつ伝わり切らないと感じることもあります。そもそも言ってる僕自身がマンガの経験が長いので、知らず知らずにこの感覚に陥る危険性もある。いくら気をつけても気をつけきれない問題です。

そんな問題に対して、僕はひとつのストーリーを手にしました。そのストーリーを語ることで、作家さんにも僕自身にも実感を伴って「今の読者に向けて作る」ことの大事さを伝えられるようになったと思います。打ち合わせで話しているそのままのトーンで、そのストーリーを書き出してみます。

最近 編集部に加わったベテランのマンガ編集者と話していたんですけど「Webtoonとマンガの読者層の違いに戸惑う」という話題になりまして。

そのベテラン編集者が「ついついマンガ読者にウケる方向に考えちゃう」と話していたら、前に座って黙って聞いていた後輩の新人編集者が急に会話に加わってきたんです。そして突然ひとこと目に「僕は今この編集部で、皆さんに囲まれて、こんな仕事ができて本当に幸せです。でも、前職の時は結構辛かったんですよね…」と、とつとつと語り始めたんですよね。

後輩の前職は営業職で、日本中を営業車で巡っていかなきゃいけなかったらしいんですけど、本当に北から南まで毎日移動して、ものすごく大変でヘトヘトだった、と。フェリーで移動する時もあったらしいんですけど、早くに消灯されて真っ暗闇、エンジン音もうるさく軽油の匂いも漂ってきて、お酒を飲んでもなかなか寝つけない。たまに家に帰っても、疲れて何もする気が起きずにベッドですぐに横になる。そういう日々の中で、彼は寝る前にWebtoonをぼーっと読んでたらしいんですよね。フェリーの暗闇の中でも、周囲に光が漏れないように毛布をかぶって読んでいたと。そしてこう言ったんです。

「僕はWeboonにすごい助けられてきたんです。 自分みたいなダメなやつがスカッと活躍する様をボーっと眺めていて、溜飲が下がるというか慰められてきたんです。ここで働けることはすごく楽しいですけど、世の中にはその時の僕みたいに働くのが辛い人もたくさんいると思うんです。そういう人たちを元気づけてくれるWebtoonって、すごく素晴らしいものだなって僕は思ってるんですよね」

後輩のその話は非常に刺さりました。そしてそれ以来、暗闇で光が漏れないように毛布をかぶってWebtoonを読む、その後輩の姿をずっと心に留めてるんです。僕は「20代の女性が喜ぶような作品を」とか「40代男性が課金するような作品を」とか言われても、ふーん…って感じなんですが、フェリーの暗闇でWebtoonを読むその後輩を楽しませたい、という気持ちなら自然と湧いてきます。そうすればきっと、今のユーザーともしっかり向き合えると思うんです。

だから是非とも〇〇さんにも、暗闇の中でクタクタに疲れ、光が漏れないように毛布を被りながらWebtoonを読んでる彼の姿を、ちょっと想像してもらいたいんです。そんな彼が喜ぶかな?とか、そんな彼がわかりにくくないかな?みたいな、そんな気持ちで作品を作ってもらいたいと思ってるんですよね。

以上の内容を一言で要約するなら「今の読者に向けてしっかり作りましょう」になります。が、喚起される感情、情景の持つパワー、伝わる力が桁違いです。

遠い土地の数百万の人々より目の前の一人の方が大事に思えるのは、遠い土地の数百万はただの数字や文字列でしかないのに比べて、目の前の一人には顔があるからでしょう。「Webtoonユーザー」「20代の女性」「40代の男性」も同じくただの数字であり文字列です。この人たちを楽しませるんだ、ということは理解はできるが心が動きませんし、心が動かないと結局は行動も変わりません。

抽象的なサマリや文字列・数字の中から、ストーリーの力によって、誰かの生きた顔をしっかりと浮かび上がらせる。それができていればきっと、しっかり伝わる言葉になっているはずです。

まとめ

はい、言語化についての自分の意見はとりあえず以上になります。

雑にまとめると具体と抽象をギュンギュン行ったり来たりできる力が言語化力な気がしますね。そのためには、言葉への興味、サボらずコミュニーケーションを続ける粘り、構造を見出す訓練、対話相手のアナロジーやディテールへの洞察力、ストーリーにする力、それらを支える基礎知識と体験……みたいなものが必要なのかな、と。

質問の性質上「自分が言語化をうまくできていること前提で、そのやり方を語る」という内容にならざるを得ず、恥ずかしくてめちゃくちゃ筆が進みませんでしたがw お役に立てたら幸いです。

最後にお知らせです。

STUDIO ZOONでは作家さん編集者ともに募集中です。ご興味ありましたら、以下のフォームよりご応募ください。よろしくお願いします〜!


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