傑作読み切りを読んで「ドラマ」とは何かについて気づかされた話
どうもお久しぶりです、STUDIO ZOONのムラマツです。
イキナリですが、先日こちらの読み切りを読んで衝撃を受けました。
タイトル通り、「キャロット通信」という創作文芸サークルが崩壊するまでの物語なのですが…なんというか……すごい。
すごい作品は時に様々な気づきを与えてくれますが、僕はこの読み切りを読んで「ドラマを描くとはこういうことなのか!」という気づきを得ました。
「なんでこの読み切りを読んでそんなことに気づいたの?」って話を最初にしておくと、読み切りには連載のように世界観を詳細に描き、キャラクターを多く出して発展させていく…というような紙幅がありません。なので、必然的にドラマの純度と重要性が上がります。ちょっと乱暴ですが「読み切りとはドラマを描くものである」と言い切っちゃってもいいでしょう。
『キャロット通信』は読み切りであり、なおかつ「これがドラマなんだ!」という瞬間があまりに鮮やかに描かれていたために、そんなことに考えが及んだのでした。今回は頭の整理がてら、そのことについて書き殴っていきます。
多くの感情の中で中途半端にたゆたう「日常」
それでは『キャロット通信』の内容を紹介しつつ話を進めていきます。
主人公の綾は、日中は工場で働きながら夜は自宅で小説を書く、文学好きの女性です。月に数回、高校の時に立ち上げた創作文芸サークル「キャロット通信」のメンバーと集まっては、作品を見せ合ったり、創作談義に華を咲かせています。
綾は創作を嗜むという非日常な時間と「自分は周囲の人間とは違う」というちょっとしたプライドを拠り所に、退屈な日常に耐えています。
が、綾は自分も含めたキャロット通信の面々を「小説家にはなれなかった」と評しています。かつては、ある程度のプロ志向を持っていたが、結局は自分達が憧れるような文豪にはなれなかった、と。彼女たち3人はそれぞれの日常や創作の反響に多少の不満は抱いているけれど、家で小説を書いていたり、仲間と創作について話している時は楽しい、と感じています。
こういった綾たち「キャロット通信」の態度を中途半端と断ずることもできるでしょう。「プロ志望だったならちゃんと目指せ!できないなら、キッパリやめて日常とちゃんと向き合え!」とか「仕事がつまらないならいっそやめてしまえ!やめられないならちゃんと仕事としろ!」みたいな。うるさい親とか無責任な識者が言いそうなやつですね。
ただ、この3人の描写には何とも言えない親近感を感じます。それはおそらく僕含めて多くの人がこの3人と同じく中途半端だからでしょう。
矛盾する様々な感情、例えば「あー、会社つまんねーな」「でも、この業務はちょっとがんばりたいな」「この仕事続けたところで先あるのかな」「でも、他のこと挑戦するのも怖いな」「家族に囲まれて幸せだな」「でも自分の自由な時間が取れなくて辛いな」「しんどい、もう疲れた」「楽しい、笑った」……みたいなものを同時に抱えていて、白黒もつけず、行動もせず、どれか一つを強烈に主張するでもなく、ただただ保留し続けている。
しかし、それこそが日常であり、平和であるとも言えます。「あれも、これも」を同時にとる中途半端な態度が許されいてるのは、それだけのゆとりがあるからです。ジリジリと募る不安や不満はあるかもしれないけど、何かをハッキリさせて事を荒立てる必要もない。不都合なことや自分の中で燻る感情を直視する必要もない。
綾たち3人は、我々凡人と同じように、小説で描かれるような「劇的な出来事」とは程遠い、平凡で退屈な日常を送っている。それが丁寧に描かれている。だから、親近感を感じる。
しかし、そんな3人に「あれか、これか」を選択せざる得ない劇的な出来事が迫ります。
飛行機事故です。
「劇的」な瞬間、変化する心と関係性
ここからの胸が詰まるような描写は圧巻です。
3人が旅行のために乗った飛行機は事故に直面し、予断を許さない状況であることを知った綾は死を覚悟します。
死を前にした短い時間の中で、何を思い、何を願うか。矛盾する無数の感情を抱えたまま保留することを許されていた日常は、急速に漏斗のような運命に吸い込まれ、その中からたった一つの感情を綾に選ばせます。
信仰を持たない綾は「十字架の代わり」に何かを書き残そうとしますが、「書かなきゃ書かなきゃ」と焦っても「書くべき言葉は何一つ浮かんで」きません。代わりに口をついて出てきたのは、意外にも綾が最も嫌いな職場の安全指導スローガンでした。
芸術が好きで、創作とその仲間が自分の居場所で、そして周囲の人間と自分とはその一点でちょっと違っていて……等の思いは圧倒的現実の前にすべて吹き飛び、ただただ「あの退屈な日常を生きさせて欲しい」と願う綾。自分が憧れていた芸術はたった一つしか選べない状況の中で選び取れるものではなく、自分の最も嫌っていた生活こそが自分の生きている場所であり本質なのだ、ということが、まざまざと浮き彫りになったのでした。
結果的に飛行機は無事着陸し、3人は生還します。そして後日「キャロット通信」の3人は集まり、誰ともなしに解散することになります。綾は、あの事故がきっかけで自分もメンバーも「自分が何者でないか」を知ってしまったのだ、と語ります。そして
と、振り返ります。飛行機事故という「劇的」な瞬間を経験することで、綾は、そして3人の関係性は、決定的に変わったのでした。
物語はまだ続きますが、引用するのはここまでとさせていただきます。もう読んでいただいた方には伝わっているかと思いますが、細部までめちゃくちゃ描写が行き届いた素晴らしい作品で、例えば「キャロット通信」解散を決める食事会が、高校時代と同じファミレスから大人っぽいレストランになっていて、それが創作からの卒業と彼女たちが大人になることも示してもいて…そういうディテールも一つ一つ拾い上げていきたいんですが、終わりそうにないので、この辺りで!
綿本おふとん先生、トーチ編集部様、素晴らしい作品をありがとうございました!
「ドラマを描く」とは「一つの感情しか通過できない瞬間を描く」ことである
さて、ここから「ドラマとは何か?」について掘り下げていきたいと思いますが、手始めに辞書を引いてみます。
これに沿って、漢字の意味通りに考えると、ドラマとは「劇のようなこと」だということになります。では、どのようなものを見た時、人は「劇のようだ」と感じるのか。
僕は「一つの感情しか通過できない瞬間」を見た時だと思います。
「ドラマを描く」とは「一つの感情しか通過できない瞬間を描く」ことである。このことに『キャロット通信』を読んで気付かされたのでした。
作中で描かれていたように「一つの感情しか通過できない瞬間」を体験すると、その人の考え方や周囲との関係性は決定的に変化します。多くの矛盾する感情の中でたゆたい保留し続けていたはずが、決定的に重要な一つがその瞬間にはっきりしてしまうからです。その後、日常に戻りまた同じように多くの矛盾する感情の中でたゆたうことになっても、はっきりしてしまった「一つ」をもうその人は知っています。そうなると、それ以前の日常に戻ることはできず、新しい心、新しい関係性、新しい日常を生きることになります。こうして人間は変化……言い方を変えれば成長をします。
例えば読み切りの構成に当てはめた場合、次のような形になると思います。
ドラマとは「劇のようなこと」だと書きましたが、思えば劇とは観客が日常では見れないものを見せて楽しませるものです。観客が日常で見れないもの、その最たるものが「一つの感情しか通過できない瞬間」であり、その瞬間を通過することで変化し成長していくキャラクターたちの姿なのではないか、と。
多様な感情が許されている日常の中では、人はそう簡単に変わらないし、「劇的な瞬間」はそう簡単には起こりません。だからこそ、劇の中で自分と同じような人間が「一つの感情しか通過できない瞬間」に直面し、変わり成長していく姿を見たいのだろうな、と。
そして、本当に力のある作品は、それ自体が人に「一つの感情しか通過できない瞬間」を与え、人の心を変えるパワーを持つんだと思います。
オマケ
最後に。完全にオマケですが「一つの感情しか通過できない瞬間」を鮮やかに描いた映画を1本思い出したので紹介します。
デンゼル・ワシントン主演の『フライト』!
すごい好きな映画なんですけど、観ている人とあまり出会ったことなく寂しい!今作も飛行機事故が絡んでいるのですが、たくさんの矛盾した感情を抱えた主人公が、どこに連れて行かれるのかもわからないストーリーの果てに、ものすごく「劇的」な場面に直面し、たった一つの感情を選び取ります。未見の方はぜひぜひ。
では本日は以上となります、また何か書きたいことが出たら投稿します。Mondで質問も受付中です。
ではでは、引き続きよろしくお願いします。
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