最適化f

最適化される世界のなかで

先日、こんなニュースが僕のスマホに飛び込んできた。

僕は決して、普段からこういう界隈の情報に聡いわけではない。
そしてそれゆえに、世間のざわつきが収まりつつもある1月18日(たぶん)にようやくこの記事を読んだ。
それでも何かの巡り合わせで、僕の元にこのニュースは届いた。

このクッキーが活用できなくなれば、ネット上の行動を監視されているとユーザーが感じる場面は減る一方、ターゲティング広告の精度は落ち、自分の関心からかけ離れた広告が頻出する可能性がある。
-リンク記事『グーグル「閲覧データ」提供停止に広がる波紋』より

ニュースの中でいちばん気になったのは、この部分だ。
『ターゲティング広告の精度は落ち、自分の関心からかけ離れた広告が頻出する可能性がある。』

そこで、ニュースやクッキーとは直接には関係がない話になるけれど、「自分の生活に興味のない情報が混じりこむということ」について考えてみた。

排除されるノイズ

Google検索の精度はどんどん上がっていて、検索結果の一番上をクリックすれば、大抵の疑問は無事解決する。
10分前に検索したワードに応じて、今の自分に必要そうな情報を持つ誰かが、ネットの世界の向こうから声をかけてくる。
Amazon「これが欲しいんじゃない?」
ネット広告「これに興味があるんだろ?」という具合に。

ニュースアプリが僕に向けて最優先で投げかけてくるニュースはお気に入りのサッカーチームの最新情報だし、amazonが僕にオススメしてくる商品は的を射ている。
Instagramでフォロワーを減らさない為には「ターゲットにハマらない投稿をしない」ことが鉄則らしいし、人気のTwitterアカウントだって、得意分野の情報発信を主としたものが多いように感じる。

いまや、少し検索すれば自分が欲しかった情報がドンピシャで得られるし、それに関蓮する情報は、向こうの方から飛び込んでくる。
数あるニュースの中から興味のあるものを選別する手間はもはや必要無いし、SNSのタイムラインにも、自分にとって有益な情報がズラリと並ぶ。

そうやって、自分の趣味趣向にそぐわない情報、いわば"ノイズ"は、僕たちの生活から排除される。

ノイズの効用

『社会を変えるのは「よそ者、若者、ばか者」だ。』

なんて言葉がある。これら三者に共通するのは、いずれもその社会に最適化されていない"ノイズ的存在"であることだ。

社会が変化するのに"ノイズ的存在"が必要であるとするならば、それは自分自身の変化や気付きについても同様なのではないだろうか。

ノイズはいつも、自分の興味から遠く離れた場所から聞こえてくる。
(そもそも「自分の趣味趣向にそぐわない情報」をノイズとするのだから、当然の話ではある。)
**しかし、もとは興味が湧かない"ノイズ"だったとしても、それらの中に、雑学や無駄知識として頭に残るものがある。 **

そして一見、雑学や無駄な知識・経験に思えていたものが、ある日突然自分の中で繋がって線になり、意味を得ることがある。
その線は離れた2点を結ぶものほど希少で、「その繋がりに気付いた自分」ならではのオリジナリティや革新性を産んでくれる。

こんなことを考えている僕にとって"ノイズ"は、非連続な変化や新たな気付きに不可欠なものだ。

ノイズだって、届けてほしい

たとえ世界のトレンドには逆行しているとしても、僕と同様、ノイズを必要とする人だって一定数存在するのではないだろうか。
だとすれば、最適化の最先端を走ることができなかった検索エンジンやメディア、インフルエンサーにだってまだ、日の目を浴びるチャンスがあるのかもしれない。

最適化された世界の中に、ノイズを求める層が存在するのであれば、「あえて最適化しない」「ノイズを届ける」ことが、ニッチな市場での生き残り戦略になることだってあるはずだ。

自分が検索したことと全く合致しないページを提示してくる検索エンジンや、全く関心の無かった分野のコアなニュースばかりを流してくるアプリがあるならば、僕はちょっと使ってみたいし、作ってもみたい。
すぐに飽きるかもしれないけれど。

最適化される世界のなかで

リターゲティングビジネスで成長してきたフランスの広告大手クリテオの株価はグーグルの発表後、前日比約16%安と急落した。同社は急きょ、「グーグルの発表は全面的に支持する。個人識別のソリューションはクッキー以外にも広げている」とするコメントを発表した。
-リンク記事『グーグル「閲覧データ」提供停止に広がる波紋』より

広告や情報の出し手にとってはもちろん、受け手にとっても、最適化されたものを届け、受け取ることは大切で、快適だ。
だから、クッキーの提供がなくなったとしても、それ以外の手法を用いた"最適化競争"は続くし、それはより高度な最適化を実現し続けるのだろう。

2020年代、世界がこの最適化の流れに乗って突き進んでいくのだとすれば、普通の生活の中でノイズと遭遇する機会は、もっともっと少なくなっていくはずだ。

それでもノイズの効用や面白みが失われるはずは無いし、むしろそれは、高度に最適化された生活の中にあるほど価値を増すのではないだろうか。

そうしてノイズに目を向けはじめる人々が、世界の最適化が進むほど、少しずつ増えていくのではないかと思う。

こうしている間にも、最適化競争に背を向けた誰かが、どこかにノイズをばらまいているのかもしれない。(このnoteだって、きっと多くの人にとってはノイズだ。)

そのノイズがいつか、僕のところに、誰かのところに、流れ着く。

最適化される世界のなかで、引き続きそんな営みを楽しめる2020年代であればいいと思う。


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