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【短編】雲を見る
私は雲を見ていた。
空に浮かぶ雲は、次の瞬間には少しずつ形を変えている。
同じ形の雲に出会うことは、二度とない。
薄らぼんやりと、カフェの窓から空を見上げながら、あなたを待つ。
緩やかな風に吹かれて、形を変える雲。
そんな風に変わっていったのだろう、あなたへの想いも。
時には嵐の日も、時には雲ひとつない晴天の日も、乗り越えていくつもりだった、あなたとの日々。
私は、今から、あなたに別れを告げる。
テーブルの上のグラスが、汗をかき始める。
ツーッと伝わって落ちる雫が、グラスの下に水溜りを作る。
待つことすら、愛おしき時間だった。
どこから変わっていったのか。
好きな人ができたわけでもない。
できれば、その方が楽だっただろう。
出会った頃は、素敵だと思った癖も、男らしいと思った仕草も、かわいらしいと思った泣き顔も、一つ気になりだすと全てが気になり出す。
私は、こんなところにときめいていたのか。
気になってしまった綻んだ糸をつい引っ張ると、スルスルと解け、取り返しがつかなくなったニットのように。
きっと、形を変えていったのは私の心。
グラスの中の氷が音を立てる。
注文したコーヒーは既に空だ。
いつになったら、やってくるのか。
ほら、もうあの雲は違う形になってしまった。
「ごめんごめん、遅くなった」
理由すら言わない、笑顔のあなた。
どうせ、寝坊でもしたのだろう。
気を抜いたファッション。
寝ぐせのついたままの髪。
決断が確固たるものになる。
長居は無用だ。
「別れましょう、私たち」
お水を運んできた店員が、ばつの悪そうな顔をして、注文も取らず、そそくさとコップを置いて去っていく。
きっと、厨房での話題の一つくらいにはなるだろう。
驚いたあなたの顔。滑稽に映る。
そう、私に金の無心をしてきた時からかもしれない。
あの時には気が付かなかった、あの時と同じ滑稽な顔。
いや、滑稽なのは、あなたに尽くすことが愛だと信じて疑わなかった私だ。
「お金は返さなくてもいいから、黙って別れて」
コーヒー代をテーブルに置き、カバンを肩にかけ席を立つ。
「ちょっと待ってくれよ」
外に出た私を追いかけてくるあなた。
足早に歩く私の腕をつかむ。
掴んだのは、後ろ手に振りあげた私の腕の、腕ではなく腕時計。
引っ張るあなたの手と共に、するりと腕時計が抜けた。
そのはずみで、あなたは体勢を崩してよろめく。
サイズの合わない、大きな男物の腕時計。
気を抜くとすぐに、手をすり抜けて落ちる。
二か月前に亡くなった、父の形見だ。
ベルトも直さず、そのままつけていた。
気恥ずかしかったのか、腕時計を私に押し付け、あなたは走り去っていった。
「お父さんも反対だったの?彼と付き合うの」
ふっと笑みが零れた。
そして腕時計を見つめ、視線を空に移す。
私は雲を見る。
夕闇に推し迫られる薄紫色の空。
さっきまで見ていた雲は、もうどこにもいない。
あなたに縛られていた私も、もうどこにもいない。
視線を前に移し、私は歩き出した。