見出し画像

まだらもよう

 恭平と娘が煤まみれのストーブの前に座った。
 「いいか、この石油がでてくる所が詰まっててるんだから、ここをまず掃除しなきゃいけないんだぞ。」
 娘は何も言わず、恭平の指示の通り手を動かす。新聞紙を絨毯の上に敷き、燃焼筒を回して、ストーブの芯を取り出した。パラパラと溢れる煤に気を使いながら、新聞紙の上へ移動させる。娘はジリジリとそこに近づき、古い歯ブラシでストーブの芯を擦った。シャッシャと小気味いい音が響き、それと同じように、リズミカルに部屋の温度も下がってゆく。そんな娘の姿を横目に、恭平は真新しい雑巾を用意していた。歯ブラシでは取りきれない煤を、雑巾で拭き取ろうという計画だ。娘は嫌な顔をしつつも、雑巾を受け取り筒を拭き上げた。たった一拭きで、自慢の白い手は、爪の隙間まで真っ黒な煤に染まってゆく。二人の間には、石油独特の匂いが漂っていた。恭平は満足そうな顔で見つめる。成長した娘に、父親として教えることがまだあるのだから、幸福この上ない。不機嫌な娘の心のような風が隙間から吹き込む。氷点下の針は、静かに二人の末端を刺した。
 「寒い。寒いんだけど。」
 「これが綺麗になったら、暖かくなるんだから。」
 「あたし、こんなこと、もうやりたくないんだけど。新しいの買ってよ。」
 「そんなこと言われてもなぁ。うち貧乏だからな。来年まで我慢しなさい。」
 娘はわざとらしく大きなため息を吐いた。
 「あたし、金持ちと結婚する。貧乏いやだもん。」
 恭平の妹もそう言って金持ちと結婚した。毎年送られてくる年賀状は、旅行先で撮った家族写真。金持ちの自由な暮らしをまざまざと見せつけられているようで、正直なところ鬱陶しさを感じていた。
 「金持ちと結婚したからってお前が金持ちになるわけじゃないんだからな。そんな簡単じゃないんだぞ。お金を貯めるのとか、稼ぐのとか。」
 再び、娘は大きなため息を吐いた。満足げな恭平の顔も曇り、ただストーブを磨く音だけが部屋の中に響いた。

 掃除機で埃と煤を吸って、芯と筒を元の場所に。娘も恭平も、疲労と寒さで真っ青になっていた。燃焼筒のつまみを左右に動かし、ちゃんとハマっているか確認して、『運転』ボタンを押す。ととととと、ぼん。
 「付いた!」
 綺麗になった燃焼筒から、赤い炎が立ち上る。娘は汚い手のまま、ストーブの中を覗いていた。冷え込んだ空気が、じわりと暖かくなっていく。
 「手と雑巾洗いなさい。」
 「はーい。」
 娘に雑巾を持たせ、洗面所まで付いていく。仕事が済んだ恭平は暇であったし、娘がちゃんと洗うことが出来るのか心配だった。バケツに水を溜め、うちには見合わない高級石鹸の表面を雑巾で少し擦り、黒い雑巾を沈める。黒い霧のような煤が広がり、泡も水も全てのものを黒く染めた。娘は、バシャバシャと水飛沫をあげ、雑に洗う。恭平は、その仕草に妙な懐かしさを覚えていた。いつか見た、必死に洗うあの姿。

 恭平が幼い頃、昭和の時代に遡る。相変わらず貧乏な家庭の中で暮らしていた。父は安月給の癖に親戚と飲み歩き、母は妹を産んでから体調が優れず仕事が続かない。身も心も困窮していくばかりだった。恭平にとって「おでかけ」といえば、デパートや服屋には目もくれず、近くの線路に行くこと。そこは、石炭を輸送するための線路で、振動で落ちた小さな石炭がそこらじゅうにあった。暖を取るため、遊びたい気持ちを我慢して、恭平はひたすら石炭を拾った。母は背中に小さな妹を背負っていたため、恭平よりは拾う石炭の数は少ない。そんな母のために、目ざとく石炭を見つけては拾い、見つけては拾った。単純な作業の面白さ。無我夢中で拾っているうちに、手も、体も、お気に入りの白いハイソックスも、石炭によって黒く染まる。当時の小学生は、学校の時も、遊びの時も、法事の時も、短パンの下に白いハイソックスを履いていた。それがないと、みんなから仲間外れにされるくらい重要なものだった。真っ白でなければならないのに、まだらに汚れた白い靴下。汚れたままであれば、いじめられることくらい容易に想像できた。汚れた靴下を持って、恭平は母に期待を込めて言った。
 「石炭で汚れちゃった。」
 「あぁ、そう。じゃあ、洗いましょうか。」
 それだけ言うと、母は洗濯板と桶を用意して、ゴシゴシと洗い始めた。灰色の泡がもくもくと、洗濯板を流れてゆく。母の真剣な眼差しは、ただ靴下だけを見つめていた。恭平も母にならって、靴下を見つめた。確かに汚れは落ちているように見えたが、ボコボコの洗濯板に擦り付けられる様子は、ガキ大将と恭平の関係にみえてなんだか恐ろしい。息切れするほど洗う母。ちっぽけな靴下が母の息を切らすほどのものなのか?恭平のなかに芽生えた小さな疑問は、やがて母が悪い者に取り憑かれたという妄想に落ち着いた。
 「きっと、あいつは貧乏神だ。家が貧乏なのはこのせいだ。」
 そう思い込んだ恭平の肩は、どんどんと縮こまって、目頭に熱いものが溜まっていった。
 取り憑かれたように靴下を洗う母は、恭平にとってこの靴下がどんなに重要か理解していた。近所のガキ大将に、白いハイソックスを履いていない貧乏人と馬鹿にされて泣いていたところを見ていたのだ。子供の世界は残酷で、仲間に入れなければ、ずっと馬鹿にされる。そんな恭平を可哀想に思い、無理をして一足だけ買った。たかが靴下、されど靴下。それだけの出費で、苦しい家計はなお苦しくなった。けれど、ここで踏ん張んばらなければ。母としての威厳というより、貧乏人の虚栄心がそうさせた。
 貧乏性というのは、恐ろしい。お見合いで一目惚れした父と結婚したものの、嫁いで来た当初は、家事もできない箱入り娘だった。嫁入り前の母の仕事といえば、九官鳥の世話くらいしかなかった。手が荒れるから嫌、疲れるから嫌、汚いから嫌、と言えばお手伝いさんがやってくれた。世の中、そんなものだと思っていた。後悔した時には、もう遅かった。誰にも頼れない母は、見様見真似で家事をこなすしかない。この洗濯だってそうだ。何もわからないまま、擦り洗っている。
 お嬢様であった母のプライドは、もう見る影もなかった。清貧でありたかった母は、取り繕えばするほど、かえって心も貧乏になってしまう。貧乏は嫌、貧乏は嫌、貧乏は嫌。
 石炭拾いに付き合わせたことも、それで汚れてしまった靴下を買い替えられないことも。幼い妹のために、犠牲になっている恭平の子供らしさも。そもそも、浪費家の父と結婚したことも。恭平に取り巻く全ての不幸が、自分に原因があるような気がして。ガッカリと項垂れている恭平を背に、母もまた目頭が熱くなっていた。
 母は大きなため息を吐き、汚れた水を捨て、慎重に水気を絞る。ようやく終わった。恭平はそう思った。
 「干しに行こうか。」
 他の洗濯物も一緒に持って外へ出る。まだ冬の厳しさもあったが、春の気配もするいい日和だった。暖かな太陽の光が差し込み、晴々とした青空が気持ちよかった。ただ、靴下の前だけは曇天だった。あんなに洗ったのに、繊維に入り込んだ黒い粒子は、全く取れていなかった。恭平は迷った。買い直してほしい、と言うべきか。流れゆく雲を見つめていたら、家の中から妹の泣き声が聞こえた。わがままなんて言えない。不遇な運命を受け入れる、醜いとも言える決心。母の持つ貧乏性は、恭平の心に根深く刻まれた。

 若き母の面影を持つ娘は、恭平のほうに振り返り文句を言った。
 「これ以上落ちないよ。」
 乱暴に持ち上げた雑巾は、まだらに染まっていた。あの靴下みたいに。
 「新しいのだけどさ、もういいでしょ。」
 娘は雑巾をゴミ箱に捨てようと考えているのか、千切れそうなほど固く絞る。居た堪れなく恭平は、娘から雑巾を取り上げ、丁寧に皺を伸ばした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?