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神の恵みの音
『共感覚という神秘的な世界〜言葉に色を見る人、音楽に虹を見る人〜』(モリーン・シーバーグ著、和田美樹訳、2012、株式会社エクスナレッジ)
を読んだ。
27歳のとき共感覚者であることを知った女性ジャーナリストが、共感覚者である世界的なアーティスト達にインタビューをして書いた本だ。
前書き、後書き、目次、本文さわり、をパラパラとしてみて、「科学と芸術の音がする、探偵物みたいな曲調、これは、大好きな部類」と感じて、ゆっくりと読み進めたが、最初から最後まで、まさにその通りの一冊だった。
中でも、私自身の「共感覚」に対する捉え方を決定的に変えてくれたのは、音楽を聞いて色を感じる共感覚者ファレル・ウィリアムスの言葉だ。
「共感覚はぼくにとって唯一の手引きなんだ。それがなかったら、ぼくに、人さまの言ういわゆる才能ー自分では恵みと思っているーはもたらされなかったと思う。こうして見て感じることができるのは、天から特別に授けられた能力だ。もし、これを急に失ったりしたら、作曲を続けられるかどうかわからない」
【グレイス(神の恵み)】
この一単語で、自分がもつ、文章や絵画、写真、モノ、人から「音」を感じる共感覚に対する見方がごろっと変わった。
同書で紹介されている、サイトウィック博士による共感覚の診断基準は以下の通りだ。
1.自動的かつ不随意な現象である
2.共感覚のフォティズムには空間的な広がり、つまり位置の感覚がある
3.体験には一貫性があり、かつ漠然としている(単純である)
4.記憶に残りやすい
5.情動を伴うー体験者は感情的な反応を示す
そうなのだ。
私にとって、「音」の感覚は、自動的な現象であり、記憶や感情との結びつきが強い。
読むべき本、関わるべき人、人との距離感、進むべき道を決定するとても重要な判断基準、になっている。
「音」は私の「羅針盤」なのだ。
絵画や写真から聴こえる甘美な音に包み込まれるあの体験は、言葉では言い表わせないほど、美しい。
そういう体験を誰かと共有できない事実は、私を孤独にさせた。
自分はおかしいんじゃないか、という不安感が拭えなかった。
でも、共感覚は「グレイス(神の恵み)」という捉え方に出会って、全てが変わったと思う。
共感覚は意図的に起こせるものではない。
音が聴こえる絵画もあれば(そちらの方が少ない)、聴こえても音は段々とすーっと静かになっていく。
初対面で印象的な音を感じる人もいれば(そちらの方が少ない)、感じない場合もある。
言葉より、音を優先させる関係性もあれば(とても深い体験だ)、そうでない場合もある(どの程度音が優先されるかレベルがある)。
みんなそうだと思いこんでいたが、そうではないことを知り、この感覚が一体何なのか、理解しかねていた。(今では逆に疑問だ。本から音が聴こえないなら、どうやって、読む本を決めるの?)
でも、「神の恵み」ということなら、腑に落ちた。
「神の恵み」を、解剖学的に切り刻んで、部分をあれこれ批評したり、部分の統合を全体であるかのように結論づけたり、ケチをつけたり注文をつけたりできるはずがない。
日本では、家庭内に神棚と仏壇を祀る神仏習合が浸透しているだけでなく、正月には神社に初詣に行って(神道)、クリスマスは恋人と祝い(キリスト教)、お葬式ではお坊さんにお経をあげてもらう(仏教)。八百万の神さまやたくさんの仏様、聖人が違和感なく同居する、世界でも類いまれな国なのだ。盆と正月には家族でお墓参りに行き(祖霊崇拝)、米粒には7人の神さまがいるから残しちゃだめ(アニミズム)と怒られる。宗教に関して言えば、ある意味、境界線を持たない「共感覚的な」宗教感覚が、精神的土壌にあると言えるだろう。
私も、「神さま」に対して、素朴な信仰や畏敬の念を自然に持っていたい。
「共感覚」というこの美しい感覚は、特殊であるが故にある種の「不安感」や「寂しさ」「孤独感」を帯びていたが、これは私に与えられた「恵み」だと捉えられるようになって、なんだか、おごそかな気持ちになった。(実に根が単純だ)
「神の恵み」。
喜びを持って授かろう。