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読書ノート:働くということ(著:勅使河原真衣)


はじめに

メリトクラシーに関わる所説に関しては、いくつかもやもやしているところがあった。

  • メリット、「能力」という言葉で人が(たぶん権力により)操られており、結果、自己責任というナラティブと相まって、人を圧迫するロジックが展開され、結果、個人が生きづらくなっているような、諸相はよくわかった、

  • その対案が、人と人の間の舫い(もやい)という曖昧なものでその実装が見えなかった

  • 二元対立的というか、問題の責任をある一方に押し付けて、それに対する攻撃性が全面にで、その攻撃している対象の人とも、どう紡ぐのかが見えてこない。

  • 夢のような対立軸をうちたてているが、(すむ世界が)そちらの軸側になれば、同じように、その体制の中で人を息苦しくするのではないか?

そこで、勅使河原氏の新書を手にしてみた。2024年8月16日にアマゾンで頼むと1か月先の配送と連絡があり、結局、在庫のある実書店で入手した。既に二刷になっており、人気本であることには違いない。

課題の設定

本書は、タイトルから明らかのように、労働における「能力主義」について問うている。まずは、「能力」の起源として、限りある自然を人々に分配するところからスタートして(P31)、その分配が、生まれによらない、人の能力によって分けるということを起源とするが、それは人を「分ける」ことであり、人を「分った」ことにするという納得感として押し付けており、そのナラティブは(たぶん権力側の)「ロジック」に過ぎないと看破する。

そのロジックとは、「未熟な」私たちという設定(P36)のもと、頑張った人=能力が高い、は報われるというロジックであり、その結果、「能力」により不平等を解消するどころか、自己責任と合わせて、不平等を納得させるシステムになっている。著者は教育社会学の立場から、「能力は虚構である」と看破し(P45)、「能力」を獲得し続けることが「正義」となっていると現状に思いをはせる(P63)。個人的には、「ご機嫌」、「しあわせ」、「怒らない技術」も「能力」をめぐる言説に準じるという主張(P54)はちょっと納得できない。

あらすじ

第1章 「選ぶ」、「選ばれる」の勘所

「能力」が仕事の現場で最も使われる場合として、採用や人事でよく行われる、人を「選ぶ」、人に「選ばれる」という事象に著者は着目する。そもそも、人が人を選び選ばれるというのは日常生活を含めてレアケースであり(P78)、本来は仕事の成果が問われるべきであり、この成果というのは複数の様々な人が貢献しているということであって個人の能力ではない、という成果と能力のズレを指摘する。

著者の優れているところは、「でき」による配分を問題視するという、問題設定に対しても、そもそも、「できることが偉い」設定自体に疑問を呈し、「できる、できないは本人の努力だけではないのに、それでもらいの多寡がきまるのは不平等」と展開しているところだ(P81)。

そして、「不平等の納得」を至上命令にして編み出さされ、影響力を強めていった「能力」の実相は、いい加減であり、不自然な設定であると看破する(P87)。

第2章 「関係性」の勘所

著者は、「能力」の対案として、「関係性」を前面にだす。良し悪しや序列つきの能力ではなく、個人が持つ「癖」や「考えの傾向」をある程度把握して、それに合わせて回りの人との組み合わせや、仕事の内容、与え方、進め方を調整するという、組み合わせのよしあるしで、個に良し悪しはない(P104)。目指すは「走る車」であり(P105)、特技の持ち寄りは複数の評価軸があってこそ(P119)という。

能力主義は、「一元的な正しさ」であると看破し、問題の根源は「一元的な正しさ」に社会が支配されていることであるとする(P129)。組織としてはアプトプットが足らないとする。アウトプットとは成果というより、関係性にフォーカスし、みんなが味を出してあわさってできたこと、耳を傾け、承認し合うことを指している。そして、変わるべきは、「能力主義」から「組織開発主義」への転換であると主張する。

”能力という虚構概念を据えるほうが合理的な社会の構成がしかとあり、そのことはもはや「正義」の一部であるかのように、骨の髄まで生活に染みついている"(P140)、という能力主義からの脱却が難儀なものであることも事例を含めて説明される。

能力主義の現在的な表れとして、AIを利用したHRを上げ、AIで人を選んだり、やめそうな人を予測するという活用ではなくて、どういうモチベートされそうな人と職務の組み合わせが考えられるかをAIで求めるのが本来の使い方ではないかと主張する(P135)。

第3章 実践のモーメント

さていよいよ、脱「能力主義」の実践として、人が人を「選ぶ」ことを頑張るのではない、「選ぶ」のは自分のモード(態勢)であるという主張を展開する。哲学者の引用から、社会問題とは「自分自身が現に関与し、自分のあり方が問われている問題」としてとらえるべきで、「選ぶ」問題も、自分ごとに展開する。そこでは、”人を「選ぶ」のではなくて、自分たちのありたい姿や、それで実現するのに適切な体制や方法を選ぶ"(P196)という実践を通じて、「正しさ」から下りることを進める。

実践の例では、能力主義との二者択一ではない道も示していて、「テール組織がいいね」とか、「能力主義って駄目だよね」、ではなくて、双方の特徴を知って、その側面が生かされる事業の運営に「選んで」用いること、そのなかで自分の持ち味を発揮しやすいかを、個人の特性と照合して考える必要があるという事例を紹介する(P196)

終章 「選ばれし者」の幕切れ

最後に、前章までを振り返り、「他者と働くということ」のカギが、他者を「選ぶ」ことにあるのではなく、自己のモードを「選ぶ」点であると振り返り、行く手を阻む様々な言説について紹介する。

リスキリングも本来は組織が生き残りをかけて、成長産業への労働移動をおこすための手段であったのに、個人のサバイバルスキルに矮小化されているとし、本当のリスキリングは、「自分のモードに気づき、選ぶ」ことであると主張する。

最後に「働くということ」に関して、分析なんかできないくがいがいい(P230)とし、とりあえずやってみることの重要性を述べる。

まとめとして、竹内先生の「偶然とは何か」を引き合いにだし、「運」、「不運」は各人にとって結局自ら引き受けなければならないことであるとしても、社会の中で、自分の「幸運」は当然自分の権利であり。他人の不運がその人の自己責任であるとすることは、道義的に正当でない。「運」「不運」は、他人と分かち合うことによって「偶然の専制」を和らげるべきという、文章を紹介し、もちつもたれつゆらゆらやっていく世界を展望する。

ゆらゆらやっていく世界の参考文献?として、帚木蓬生の「ネガティブ・ケイパビリティ」、拙速な理解ではなく、謎を謎として興味を抱いたまま、宙ぶらりんのどうしようもない状態を耐え抜く力や、苅谷剛彦の「アンビバレンス」曖昧を許す、対立・葛藤を含む、複数の価値の両がかえ状態、を紹介し、派手さもかっこよさもない、めんどくさくて、ややこしく、時に支離滅裂、そこに真正面に向き合うのが、本書の「働くということ」であると結ぶ。

感想

メリトクラシー、能力主義の虚構についてよく理解できた。また対案である、「舫い(もやい)」についても、「能力」に代わるものとして、「関係性」に着目した組織開発主義として、実践(作り物かもしれないが)を通じて、関係性を気づく中で、自分のモードを選ぶ重要性にいざなう。そして、人を「選ぶ」ことを自分のモードを「選ぶ」ことに読み替え、自分が変わる必要性・可能性について新しい道を開いた。

二項対立ではなくて、特性を生かして、方法(能力主義も)やモードを選ぶというその姿勢は面白かったと思う。関係性に視点を移せば、攻撃対象もいつかは仲間になるみたいな、ONE PIECEのルフィーみたいな、姿勢も良いと思った。社会教育学のdiciplineという、「設定をとことん疑う」という姿勢は、様々な企みが社会に埋め込まれている現代人には必須の能力なのかもしれない。

一方、企業、特にJTCでは、目標管理の仕組みとか、自立性やチームとしての貢献についての計画や評価が、「能力」は語らずに行われているという現実も盛り込んだほうが良いと思った。また人との関係性で成果が出るという話も、ある種の統制が必要で、例えば小集団活動のように、まさに関係性で成果を出すような活動もJTCにはある。これは、フォーマットが決まった場があれば、そこにロールとしていろんな人が参加できて、場合によっては、組織を超えたCFT(クロスファンクションチーム)が可能になったりという、そういうダイナミズムがあり、このような事例も入れるとよいと思った。

あと組織論で重要なのは、すべての施策は、はじめは良かれと、手段としてスタートしたのにそれは、時間がたつにつれて、目的にすり替えられて制度として疲弊して、捨てられるというライフサイクルの繰り返しがあるというのを知っておいたほうが良い。これは、手段を目的にすり替えないと警告を鳴らし続けるだけでもどうしようもないので、むしろこれを利用するようなそういう、やりかたが長期的には必要かと思った。

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