見出し画像

天才かもとだめかもの間

 文章を書いたり、短歌を作ったりしていると、天才だ!最高だ!と思う日があれば、もうだめかもしれないと落ち込む日もある。いい文章が書けてうれしい。短歌をつくることが本当に楽しい。この無敵にも似た気持ちよさで、わたしはどこまでも行けるんじゃないか。そう思う瞬間がある一方で、何を書いてもピンとこず、書いても書いても自分にがっかりして、わたしには書くことが向いていないんじゃないか、と落ち込むことがある。

 「だめかも」と思っている時期は、調子のいいときの自分が別人のように思える。過去に作った短歌やエッセイを見て、眩しく思えてしまう。自分から距離のあるものを眺めるように、遠くにある灯台に目を細めるように、(いい短歌だな)(書くことが楽しそうだな)と思う。羨ましい。何を書いても手応えがないし、書いたところで本当に面白いんだろうか、と不安になる。到底届かないような気がするよ~~なんてぶつくさ言いながら、部屋の隅にあるクッションに背を預けてひっくり返り、天井を凝視する。呻きながらスマホをいじって、SNSの大海を泳ぎ始める。逃げたいから、無駄な時間を過ごす。それでも頭の片隅で、短歌のことや、取り組んでいる原稿のことを考えている。

 毎朝、始業時間の二時間前に机の前に座って、原稿を書くのが日課になっている。二時間集中したら、会社の勤怠システムにログインして、打刻。在宅勤務の日は、始業ぎりぎりまで原稿を書いている。使うのはポモドーロ・テクニックという、25分おきに5分休憩するスタイル。二時間まるまる時間がとれないとしても、15分でも、5分でも、たった一首、たった一行でも、書くようにしている。もしもわたしが素晴らしい文章を一発で書ける本当の天才だったら、こんな風に毎日コツコツやっていないと思う。ごく平凡な人間だから、自分が続けられる時間帯に、無理のないやり方で積み上げる。

 一度で完璧なものをつくろうとするとなんだか上手くいかない。だからわたしは諦めることにした。下手でも、だめでも、一行前に進めてみる。そうすると、また次の行が指先からじわじわ出てくる。ピンと来なくても文章を修正しない。最後までまずは書ききってみる。自分にイライラしながらやることもある。文才やセンスのなさを一番よく分かっているのはわたしだ。どうしてこんな下手くそな文章を書いてるんだろう?とむかむかしてくる。それでも書く。一通り書いたら、一度そのことは忘れて、会社の仕事をやる。最後まで書ききらなくても、切り上げる時間が来たら、終わりにして気持ちを切り替える。夜になって、退勤したら、美味しいご飯を食べたり、人に会ったり、映画を観たり本を読んだりする。会社の仕事をやりきったら、わたしのMPは尽きている。だから原稿は書かない。よっぽど締切に追われていない限りは、好きなことをして過ごす。そして湯船に浸かって、好きな動画を観て、ふかふかの布団でたっぷり眠る。

 翌日。昨日と同じように机の前に座って、書いていた文章を頭から読み直す。すると、文章をよりよくする方法が不思議と浮かび上がってくる。文章の場合は頭から順に書き直し、短歌の場合は推敲案をいくつも並べてみる。ゼロから書くときよりも、ある程度形が見えてきたものの方が、磨きやすい。こうなると、楽しい時間になってくる。25分集中し5分休憩するというポモドーロ・テクニックのことも忘れて、夢中になって文字を打っている。頭から読み直し、気になるところを修正する。それを数日かけて何度も繰り返すうちに、気づけば納得するものができあがっている。あんなに遠く思えた灯台にのぼって、海の光に目を輝かせている。無敵に似た心地よさで、書くのが楽しい!と笑っている。

 自分を天才かもしれないと思ったり、本当に今度こそだめだと思ったり、書いているときのわたしはとにかく忙しい。いちいちその気持ちに振り回されていたら大変だ。天才だ!と思いそうなときは冷静に、本当にだめだ、と思う時はまあ明日には変わってるかもよ、と己をなだめてみたり、極端な考えにならないように、自分を真ん中にもってくるようにつとめている。自分が天才でも、だめだめでも、とにかく積み上げること。少しでも書いて前進することに、本当の価値がある。浮かれていても、落ち込んでいても机の前に座る。毎日の習慣となった行為が、わたしの気持ちを穏やかに保ってくれる。

 それが果たして本当に幸せなことなのかは分からない。だって書かなければ、気持ちは穏やかにならないということだから。


ZINE『反復横跳びの日々』より

いいなと思ったら応援しよう!

岡本真帆
読んでくださってありがとうございます!