2021 『落下する夕方』の構成要素 その3
江國香織氏の『落下する夕方』の構造分解 第三回です。
総ネタバレなので、小説を未読の方はご注意ください。
■三角関係(つづき)
□シーン61 中島さんの来訪
中島さんが華子を訪ねてくる。
「ひさしぶりだね」
華子は中島さんに、ただいまと無表情でいう。
三十分ほど出られないかと中島さんに言われて、華子が外へ出る。
惣一が話していた中島さんが梨果のマンションに来ます。
中島さんは華子の身内らしいですが、華子のただならぬようすに、梨果は混乱します。
華子が帰ってこなくて心細くなる。
梨果は健吾をデートに誘います。
□シーン62 健吾とデート
梨果は健吾と会う。
「私、健吾と二度と会わないことも、もう一度恋愛することも、いますぐ健吾と寝ることもできる」という。
変なことをいう、と健吾はかなしそうな顔をしている。
梨果は、健吾と自分にはいまだに無限の可能性がある、と告げます。それは梨果の健吾へのエールだと思います。
が、華子に囚われている健吾にとっては、それがどうしたという台詞です。
梨果がどんなに頑張っても、健吾の心は動きません。健吾はそんな梨果を哀れだと思っているのかもしれません。
「華子はどうした?」と健吾が聞く。
「どこかに行っちゃって」
その日華子は朝まで帰らなかった。
□シーン63 華子と逃げる
華子が空を見ている。自然でひどく子供じみた仕草だ。
子供のころ、華子には友達がいなかったのかもしれないと思う。
華子は普通に見れば「魔性の女」です。
梨果の指摘どおり、女友達がいるようには見えません。
華子の服装に統一感がない。
梨果は、一年いっしょにいても華子の趣味がわからないことに気づく。
華子の荷物は極端に少ないという言及があります。
そして以前から、華子の服装は華子の男の趣味ではないかと窺える描写があります。
華子が「いってきます」といって家を出て行こうとする。
梨果のマンションに健吾がくるという。
「健吾は二度と私と恋愛しないということに気づいたから、ふたりにされても困る」と梨果が慌てる。
ふわふわフィルターを装着した梨果も、さすがに前回のやりとりで健吾が自分を何とも思っていないことに気づいたようです。
勝矢夫妻もいっしょに来る、と華子は楽しそうな顔をしている。
梨果は、大の大人が結託して乗り込んでくるなんて子供じみてると思う。
「いっしょに逃げる?」と華子に誘われる(華子のエスケープ四回目)。
「どうして私が逃げなきゃいけないの?」
健吾から逃げようとするなんて初めてのことだと梨果は思う。
健吾たちは華子に過去の清算をさせるために乗り込んでくるのです。
梨果は本来、華子を糾弾する側の人間のはずですが、ここでは華子の味方に回っています。
いっしょに逃げようとする梨果の顔を華子がまじまじと見る。
のびやかな春の空気に、「すてき」と華子が大きく息を吸い込む。
梨果は華子と逃げる道を選びます。
華子からみれば、これは初めて梨果が盟友となった瞬間です。
華子の孤独な逃避行に同伴者ができた。このことを華子は喜んでいます。
華子に「あのときの梨果さんの顔、箱入り娘の家出みたいで勇ましかった」と言われる。
あてもなくさまよう華子に、梨果は「これからどうするのか、どこに行くつもりだったのか」と聞く。
「逃げるのってものすごく苦痛ね」と梨果がいう。
「知らなかったのね」と華子が満足そうにいう。
「私はいつも逃げてばかりの人生だ」と華子はいう。
逃げ回っても結局逃げられない、と
中島さんの湘南の別荘へ行こうと華子に誘われる。
梨果は初めて、あてもなくさ迷わなければならなかった華子の苦しさを理解します。
華子がいったい何から逃げていたのか。それは自分が主体となる人生からだったかもしれないし、自分を追いかけてくる男たちからだったかもしれません。
が、どれだけ逃げても逃げられない、自分が追い詰められていることを華子は理解しています。
梨果は中島さんの湘南の別荘に誘われます。
以前華子がゴルフに行ったときも「湘南」という言葉が出てきました。
□シーン65 別荘に行く
ふたりは古い別荘に着く。小さな鞄(ポーチ)から華子が鍵を出す。
華子は中島さんの別荘の鍵を持っていて、ときどき別荘を使っていたようです。
以前ゴルフに行った相手が中島さんか別の人かは不明です。
が、中島さんが梨果のマンションに来たときに「ひさしぶりだね」と言ったので、それは中島さんとはまた別の相手であるような気がします。
□シーン66 華子との会話
「ここに来るってわかっていたら、ちゃんとした服を持ってきたのに」と梨果がいう。
「仕事やすんじゃえば?」と華子に言われて、断固として首をふる。
着るものを貸してあげると華子がいう。
以前、梨果がどん底の状態にあっても仕事にはきちんと行くという描写がありました。
これは、仕事を持たない華子とは真逆の性質です。
「ずっと逃げてるって、なにから逃げてたの?」と梨果が華子に聞く。
「まわりのもの全部から、ただ逃げてるの。はやくゲームオーバーにならないかなあっていつも思ってた」
華子の逃亡者的な人生は、華子の少ない荷物からも示唆されていました。
これは華子の本音であり、次の事態へつづく重要な伏線です。
「私ね、空は好きよ。海よりずっといい」と華子がいう。
中島さんの話が出る。中島さんは弟の経済的面倒も見ているらしい。
華子が珍しくリラックスして梨果と話をしているシーンです。
中島さんと華子の関係はかなり怪しいです。が、華子の家族とも親交があるところを見ると、中島さんは華子の身内や後見人なのかもしれません。
□シーン67 別荘に泊まる
梨果は華子の服を貸してもらう。
華子の服がたくさんあるが、華子には愛着がなさそうだった。
置かれている服の趣味のめちゃくちゃさが、華子の主体性のなさを表現しているような気がします。
健吾からかたときも離れていられないと思ったのに、こんなにやすらかにひとりぼっちになってしまった。
梨果は健吾にひどいことをしたような気分になる。
いままで健吾にべったりだった梨果が、客観的に自分を見つめだしたシーンです。
が、梨果は自分が健吾からすこし心を離しただけで罪悪感を覚えています。
□シーン68 朝
梨果は仕事のために、華子の服を借りて先に帰る。
「きょう帰ってくる?」と聞く梨果に、華子は「どうしようかな」と答える。
華子はほんとうになにも考えていない、と梨果は思う。
□シーン69 雨
梨果が仕事から帰っても華子はマンションにいなかった。
健吾が来る。
健吾は、きのうは勝矢夫妻もいっしょに華子と話をする予定だった、引き伸ばしてばかりもいられないからという。
勝矢の奧さんは離婚してもくっついているらしい。
梨果は、誰も彼も華子に用があるのだ、気の毒な華子と思う。
きのうは自分も湘南にいたというと、健吾がおどろいたようだった。
健吾は着々と華子の包囲網を作っていました。それを察した華子が梨果を巻き込んで逃亡を企てた。
そのことを梨果は理解しますが、「気の毒な華子」と華子のほうに同情します。
梨果は光の当たるところしか見えない人間ですから、健吾たちが華子を責めるという表層的なところにばかり目を向けて、華子が健吾たちに何をしたかという根本的な問題を理解していないのです。
□シーン70 執着
健吾は華子への感情を恋愛ではなく執着だという。
梨果は、健吾の華子への思いも、自分の健吾への思いも執着だと思う。
健吾の執着の原因は、華子に最初から拒否されつづけてきたからではないかと思いますが、それを断定できる根拠はありません。
□シーン71 自殺
梨果のもとへ中島さんから連絡が来る。
湘南の別荘で華子が自殺した。中島さんが行ったときには手遅れだった。
中島さんは、華子の友人に知らせてほしい、彼女の交友関係については自分も彼女の母親もまったく何も知らないからと微苦笑でいう。
梨果が中島さんの口調に違和感を持つ。
一年以上いたのに増えなかった華子の荷物を眺める。
とうとう華子のエスケープが「ゲームオーバー」と直結してしまったシーンです。
中島さんの「微苦笑」からして、中島さんは華子の放埒な生活を知っていて何もしてこなかったものと思われます。
一年以上いっしょにいても、華子の生活は逃亡者のそれだったとわかるシーンです。
□シーン72 藤沢へ行く
梨果は藤沢に行く。警察官と中島さんが待っている。
変わった様子はなかったかと警察官に聞かれる。
梨果は、華子はいつも変わっていたからと答えて、失敗したと思う。
華子は気まぐれだからと中島さんが言う。
ふらっと何日もいなくなるのもしょっちゅうだから、と。
中島さんと視線がぶつかる。優しい目だと思う。
中島さんは梨果を庇ってくれますが、その優しい目で華子のことも見捨てていたようにも見えます。
華子は風呂場で手首を切った。遺書はなかった。
風呂場は真っ赤になっただろう、と梨果は思う。
華子には赤が似合ったから。
華子と赤という取り合わせは、香港で華子が着ていた赤い服を思わせます。
あの赤い服は、主体性を人任せにしていた華子の人生の象徴だったのかもしれません。
□シーン73 葬式
健吾と華子の葬式へ行く。
親族代表の挨拶も中島さんがする。
帰り道、梨果は、華子が来ればお葬式ももっと楽しかったのにという。
健吾は同情的な顔をする。
梨果は、穏やかでありふれた華子の葬式が、華子には合わないと思っていました。
そして華子の不在を感じないように梨果のふわふわフィルターが働いた結果が、「華子が来ればお葬式も楽しかったのに」という言葉だったようです。
健吾は、梨果は現実を飲み込めていないんだなと思っていたのでしょうか。梨果に同情的な目を向けます。
健吾が梨果をじっと見ている。
孤児のような目をしている。
健吾と抱き合いたい衝動にかられる。
健吾には華子を失った実感と悲しみがあるのだろうと思います。
梨果はやはり表層的な優しさで、健吾と痛みを分け合いたいと思っています。
□シーン74 勝矢の妻が訪れる
涼子に華子の荷物を片付けろと言われる。梨果はいやだと思う。
涼子は、あの人はそうなる運命だった、梨果は巻き込まれただけだという。
涼子は正しいことを言っているのですが、梨果はまだふわふわフィルターを作動させて華子の死という現実を見ようとはしません。
勝矢の妻が来る。「大変だったでしょう」と妻に言われる。
勝矢の妻は、華子に素敵だといわれたという。
華子は、妻が勝矢のことでおこっているようすを見て、勝矢のことがほんとうに好きなのねと感心していた。
華子は梨果のときも勝矢の妻のときも、女性が男性を純粋に思うその想いに憧れていたようです。
それを壊しているのは他ならぬ華子なのですが。
華子には、梨果の盲目的な健吾への愛情に憧れていたようなふしがあると思います。
それは華子が男性に決して持てなかった感情だからです。
華子は美人だけど貧弱だった。
勝矢があんなに思い詰めるほど、どこに魅力があるのかわからなかった、と勝矢の妻はいう。
勝矢は華子が死んで楽になったようだ、ほかの男と寝る華子を見ないですむ、と。
男たちから見ると、華子は手に入るようでいて手に入らない魔性の女です。
華子の不安定さが、男の庇護欲をかきたてたのではないでしょうか。
あなたは華子に嫉妬を感じないの? と勝矢の妻に聞かれる。
梨果はわからない、健吾が楽になったのなら、それでよかったと思う。
華子さんのことをいとおしそうに話すのね、と言われる。
梨果のふわふわフィルターはおもに他人の悪意を吸い取る役割を果たしているのですが、梨果自身の強い悪意も弱めているのかもしれません。
だから梨果は、健吾にも華子にも強い感情を向けていないのです。
直人くんに華子が死んだことを隠して嘘をついたことを思い出す。
梨果は、それでも生きている人のほうが強い、と勝矢の妻に言う。
この人の現実感が勝矢を救う日が来るかもしれない、と嫉妬を感じる。
勝矢の妻には、現実感と善悪の正しい基準があります。それは、ふわふわフィルターを装着した梨果にはないものです。
自分にはないものを嗅ぎ取って、梨果は勝矢の妻に嫉妬しています。
□シーン76 直人くんとの会話
梨果は直人くんと華子のことを話す。
「女は男とつきあって磨かれるって、お父さんが言ってた」
梨果はそれを嘘だと思う。
直人くんのお父さんが何気なく言っている言葉は、華子からすればものすごい皮肉です。
華子の好きだったアイドルタレントのラジオを聴く。すごくつまらない。
華子は女性の声ばかり聴いていた。
華子はほんとうは、自分を理解してくれる女性の友達が欲しかったのだと思います。
自分の居場所は男性の傍ではなく、盟友になってくれる女友達の傍だったと思っていたのではないでしょうか。
それを梨果に求めてしまったのが、華子の残酷さであり、悲劇でもあります。
□シーン77 美容院
梨果は、この部屋を出るわけにはいかないと思う。
ここには時間が層になって積み重なっている、と。
梨果はいまだに華子の思い出に囚われています。
直人くんから華子へ留守電が入っている。
華子に遊びにきてほしいと直人がいう。お父さんも待ってる、と。
部屋のなかに充満していた華子の気配がほどけて外へ出て行く。
空のほうが海よりも好きだと華子が言っていたことを思い出す。
梨果は直人くんの留守電によって、ふわふわフィルターで遮断されていた現実世界に戻ってきます。
□シーン78 強姦
梨果は健吾のアパートに行く。
「寝よう」と言って、健吾を強姦するために格闘する。
梨果はせめて健吾の直人くんになりたかった。
健吾の前で現実の女でいたかった。
愛情なんてなくても、記憶なんてなくても。
健吾と格闘して、健吾が梨果を引き寄せる。
この部屋に閉じ込められている華子を、好きな空に出ていってほしいと梨果は願う。
梨果は健吾を現実世界に戻すために、健吾を強姦しようとします。それはいままでふわふわフィルターで梨果が包み隠してきた、力強い感情と行動です。
梨果は健吾が自分と同じように悲しみの底に沈んでいることを理解しています。
そこに新しい風を吹き込みたかった。
次のステップに進むために、梨果たちは交わります。
□シーン79 別れ
健吾が家まで送ってくれる。
梨果は現実のこちら側へいようと決める。
健吾にもいてほしいと願う。
マンションを引っ越そうと思うと健吾に告げる。
梨果は健吾と華子にほんとうに別れを告げるために、マンションから引っ越すと健吾に告げます。
自分と健吾が現実からエスケープしないように願いながら、梨果は次のステップへ進みます。
お付き合いいただいて、ありがとうございます。
恐ろしい話ですが、まだつづきがあります。
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