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文字書きさんに100のお題 057:熱海

オクターブ

 皆川和之(みなかわかずゆき)は義理の息子で伴侶である皆川理誠(りせい)と共に美術館を訪れた。
 美術館は山の上にあり、車の助手席に乗りながら、和之は理誠と坂の勾配に驚いていた。
「車のサスペンション、大丈夫かな」
「山はだいたい、こんなものだよ」
 理誠は上り坂のカーブに合わせて軽快にハンドルを切っている。理誠は旅行が好きで山道の運転に慣れているので、和之ほど坂道に驚いてはいない。
 理誠と籍を入れたのは一年前、ふたりが四十二歳のときだった。大学の入学式で和之に一目惚れをし、和之が学生結婚で大学を中退してからも、理誠は自分から離れようとしなかった。
 三年前、長男星一を介して理誠と再会した。最後に会ってから十年が経っていた。
 それを契機に、妻の睦美と離婚した。さまざまな事件が重なったあとの出来事だった。
 睦美とは大学一年生のとき、星一を身籠ったことで結婚した。当初から睦美は、和之には別の想い人がいると気づいていた。
 自分は自分に嘘をついていた。今の和之にはわかる。その嘘のせいで、大勢の人生を狂わせてしまった。
 どんなに虐げても黙ってついてきた隣の男の横顔を見上げる。
 ひときわ顔立ちの整った、美しい男だった。動きのひとつひとつが鮮やかで、彼に目を奪われる人も多い。
 底から湧き上がる光を宿した、色の薄い瞳。迷いのない、まっすぐな目だった。
 瞳の輝きに、心を釣り込まれる。
 理誠はどこまでいっても、自分に人生を狂わされたなどと思いはしないのだろう。
 急峻な坂道を上って、美術館に辿り着いた。車を降りて、美術館のクロークで手荷物を預ける。重厚な石造りの美術館で、こんな山の上に大きな美術館があることが、和之にはふしぎに思える。
 美術館の裏口にあたるフロアに展示室はなく、広いロビーに点在するソファの向こう側に、大きく海側にひらいた窓があった。
 春霞にかすんで空との境目がなくなった海と、海に切れ込むように流れていく半島の連なりが見える。
「ずいぶん高いところに昇ってきたんだね」
 和之が感心すると、理誠は
「前に来たときはもっと小さな窓だと思ってた」
 と海に向かって眩しそうにしていた。和之と目が合う。やはり眩しそうに目を細める。
 自分の顔を見るとき、理誠はすこし気後れしたような、照れたような表情を浮かべる。大学で初めて会ったときから変わらない、理誠の癖だ。
 ぼんやりと海を眺めているあいだ、理誠は和之の脇に立ってじっとしていた。理誠はいつも和之の後ろに立つ。そして和之の歩幅に合わせて歩く。理誠のほうが身長が十センチ高いのに彼と歩いていて心地よいのは、理誠がずっと自分に合わせて歩いているからだ。いつからだろう。最初からそうだったような気もする。
 理誠とのあいだにある見えない糸は、今も自分と理誠を繋ぎ続けている。誰に言ってもわからない、微細な心の振動を、ふたりはずっと共有し続けてきた。
 和之が長いあいだ否定していたその糸の存在を、理誠は大切に守っていた。初めて会って以降心から離れることがなかった理誠を、自分がどれだけ否定して理誠の想いを踏みつけてきたか、よくわかっている。
 理誠は一度も和之に本気で腹を立てたことがなかった。理誠の想いを無視し、何度振り払っても、理誠はやるせない顔で笑うだけだった。
 ――僕は間違えて生まれてしまったなあ。
 和之に子供ができたと告げたとき、理誠は嫌みのない口調で呟いて笑っていた。
 ――その子、僕が産みたかったなあ。
 途方に暮れた迷子のような顔をしていた。

 自分は同性愛者じゃない。女の子が好きなのだ。
 確認するために大学時代、一般教養の科目で同じクラスになった女性と寝た。その子が自分に好意を持っていることは、以前から知っていた。
 理誠に惹かれる想いを断ち切るために、睦美を利用した。
 妊娠したという彼女の報告を聞いて、これは自分への罰なのだと思った。
 理誠と睦美、ふたりを裏切った証であるその子供を、自分は背負って生きていかなければならないのだと。
「能楽堂があるんだな」
 階段を降りたところに扉を開いた能楽堂があった。来場者のために舞台と座席に照明が点いていた。
「能を観たことはあるか?」
「いや」
 そんな余裕もなかった、と苦笑する自分に理誠は痛みをこらえような笑みを返す。
「次は公演のあるときに来よう」
 理誠の言葉に胸が高鳴る。次。今日と同じように明日が続く。そんな日が来ることが、奇跡のように思える。
 理誠といっしょになるまでいつも、彼と同じ空気を吸うのはこれが最後だと自分に言い聞かせていた。
 理誠の手を取らなかった自分から、いつか彼は去っていくのだと。
 理誠は去っていかなかった。和之がひとりになるまで、いつまでも待つと言った。
 長男の星一があるとき、心底嫌そうな顔で理誠の話を始めた。飴色の光が落ちる家のリビングで、穏やかな冬の日の午後のことだった。
 ――あの人、お父さんの本当の姿なんて見てないですよ。
 ふだん感情を荒立てない息子の険しい表情を初めて見た。
 ――自分のなかの虚像に恋をしている。
 優しげな目をきつく軋ませて、
 ――あんな想い、生身の人間に向けるものじゃない。
 星一は苦い薬を飲んだ顔で口元を歪めた。
 あれは恋ではなくて信仰だ。
 理誠を見るたびに思ってきた疑問を、星一に暴き立てられた。自分とよく似ているのに、自分にはない優しさを目元に滲ませた息子の顔を思い出す。
 あの子はいつも、自分に正しい方向を指し示してきた。
 船乗りの目印となる空の一点のように。


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