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文字書きさんに100のお題 030:通勤電車
楽園の蛇
五十嵐は会社へ行く電車で、後輩の伏見と行き会った。
「おはようございます」
「おう、おはよう」
伏見は百九十センチと背が大きく、百七十センチに満たない五十嵐とは目線が違う。
電車は混んでいたが、人が歩けるスペースは残されていた。メンターを務めて以来伏見に懐かれた五十嵐は、申し訳なさそうに背中をすぼめる伏見を引き連れて電車の隅に移動した。
「毎日暑いな」
「そうっすね」
電車は弱冷房車で、人混みにいるとすこし汗ばむくらいだ。五十嵐は電車の車窓から伏見の胸元に目を移すと、伏見のYシャツの胸元に黒い影を見つけた。
「お前黒いインナーでも着てるか?」
伏見の目が見開かれる。
「……透けてます?」
「胸毛が?」
「いえ」
伏見はYシャツのボタンを開けて、襟を広げた。伏見の胸元からちらりと蛇が巻きついたようなタトゥーが覗く。
「それ、本物?」
「本物じゃないっすよ。クラブに行くとき、友達に遊ばれて」
クラブというのは、ゲイナイトのことだろう。男を漁りに行ったのか、と五十嵐が納得する。
「会社でバレるとまずいから、消せよ」
「肌のターンオーバーでしか消えないんで、二週間くらいかかるンすよ」
伏見がおとなしげな見た目に反してタチの悪い男と付き合っていることを、五十嵐は知っている。
ある日、伏見とともに小料理屋で夕食を食べていた五十嵐は、店を出たところでドレッドヘアの男に絡まれた。ゲイの痴話喧嘩に巻き込まれ、伏見を庇った五十嵐は左頬にドレッドのアッパーを食らった。
――いろいろと、すみません。
次の日、伏見は会社で五十嵐に謝った。
――どこから謝ればいいか……
――細かいことはいいんだけど、伏見はあいつと付き合ってるのか?
――過去に。
――今は付き合ってないんだな。それじゃいいんだ。
以来、百九十センチの男は自分にコロコロと犬のように懐いている。
「今度からは、見えないところにしろよ」
「見えないところじゃつまらないですよ」
「お前は十代のヤンキーか」
五十嵐が後学のためにタトゥーを見せてくれというと、伏見はYシャツのボタンを外してタトゥーの全貌を晒した。りんごに絡みついた蛇の絵柄で、すこし絵柄に光沢がある。
「俺のインナーが会社に置いてあるから、それに着替えろよ」
「五十嵐さんのインナーが入るかわかりませんよ」
「胸元だけ隠せればいいだろう。それで駄目だったら、タトゥーに湿布でも貼っとけよ」
「湿布も持ち歩いてるんですか?」
「腰痛でな」
伏見はシャツのボタンを嵌めると、気分が上がったようにニコニコと車窓を眺めていた。
「五十嵐さんに会えてよかった」
「見つかったのが俺でよかったな」
「ちょっと自慢したかったんスよ」
「お前……ほんとに中身は十代のヤンキーだな」
五十嵐が呆れたように呟くと、伏見は悪戯が見つかった子供のような顔でニヤリと笑った。
First Edition 2021.4.6