太郎が持ち続けた疑問
太郎には子どもの頃から略称を見るとそれが何かを考える癖があった。
大映は大日本映画製作、東宝は東京宝塚の略だと誰かに教えてもらった。
いかにもその当時の名前なんだなぁと、大映を記憶し、宝塚ってのは大阪の阪急電鉄の持ち会社なんだと、まさかその阪急の設計事務所で働く日が来るとは思っていなかった頃の話である。
そして、太郎は小学生の頃大映の映画が好きであった。
『ガメラシリーズ』『大魔神シリーズ』『座頭市シリーズ』などの今思うと陰気な映画が大好きであった。
でも、一番印象に残っているのは『妖怪大戦争』なのである。
こいつらは行進しながら太郎の夢の中にまで付いて来た。
寝ていると毎晩頭のなかを油すましを先頭に妖怪たちがおどけて歩き進み行くのであった。
ただそれだけの夢であり、太郎は不思議だなぁ、とは思いながらも怖さを感じることは無かった。
成人してからだと思う。
『百鬼夜行絵巻』なるものがあることを知った。
これがまた『妖怪大戦争』の妖怪たちの行進とかぶった。
太郎は大勢で歩くことを好まないから、彼らはなぜ行進するのかが気になった。
きっと理由はあるのだと思う。
付喪神であれ、動植物の化身であれ、一人、一匹、一体ではあまり怖ろしくはない、でも多数集まれば不気味さは増す。
それだけの話ならば、な~んだそんな事かで終わってしまうが、人のよさそうな、可愛らしい感じの妖怪たちは夜な夜な町のなかを歩き回り、その中の一人、一匹、一体が確たる理由を持ってこの地に留まることがあるのではないかと思った。
それが『取り憑き』なのではないかと思った。
太郎は人間がこの世で一番ずる賢く、一番怖ろしい生き物だと知っていたが、中にはこの行進から抜け落ちた奴が、面白がって人間に宿り操作するのではないかと思ったのである。
太郎はこれまでいろんな仕事に関係する機会があったので、本当に多くの業界、業種、そこで働く人たちを見てきた。
そして、どこでも共通するのは基本的に『人間はずるい』のである。
ずるく生きなければ損を見る、それは上手い生き方じゃない、だから皆平気で噓もつけるし、一本筋の通った自分なんてものを持ち合わせてはいない。
まあ、全ての人間がそうならば何の支障も無く世の中は平和に回っていくのであろう。
でも、そうでないから世の中は面白いのかも知れない。
妖怪たちの行進や百鬼夜行からこぼれ落ち確たる理由を持ってこの地に留った妖怪や付喪神、動植物の精霊たちはおかしな奴を作り上げてそれを見て、その苦労、無様さを見て面白がっているのである。
嘘をつくことを知らず、筋の通った一本気な人間を創り出してどう生きるかを観察しているのである。
『正直者が馬鹿をみる』という言葉を作り出したのは奴らではないのかと太郎は疑っているのである。
ただ、太郎も長く生きてきてこんなことに気づいた頃には、いまだにずるさを嫌い嘘も付かぬのだがスルスルと上手く生きる術を身に付けていた。
するとその頃には奴らは太郎の周りから消えていった。
「面白くない人間を相手にするほど暇じゃない」と捨て台詞を残して消えていったのである。
太郎はそんなことに気付きもしないが最近妙に生き易くなったと感じている。