京阪電車のおもいで(つづき)
東京が銀世界だった頃、大阪は少しだけ雨が降った。
まだ二十代だった頃、雪の積もった祇園の街を長靴を履いて歩いていた。
大学時代の同級生がわざわざ京都まで遊びに来てくれたのである。
しからばと、悪天候であったが京阪四条駅で待ち合わせて学生気分で夜の街に繰り出した。
四条大橋の西詰にある東華菜館の最上階に日本で最古のエレベーターで上がり、すでに白くなった東山にまだしんしんと降り続く雪景色を眺めながら北京料理を腹いっぱい食い、紹興酒を腹いっぱい飲んだ。
そして、祇園まで行ったのである。
私を知る友人は私がどんな格好でも驚かない、学生時代から変わった男だったのである。
雪の祇園は静かであった。
雪のクラブも静かであった。
広い店に手持ちぶさたにしていた女の子たちが集まってくる。
長靴、防寒着の私の格好に特に反応する子はいなかった。
さすがゼネコン御用達のクラブだった。
ママにはこそっと「会社の払いじゃないから負けておいてね」と耳打ちし、ママが出してくれる先輩のボトルを順番に空にして腹いっぱい飲んだ。
帰りは京阪電車じゃなくて、タクシーで帰っただろう、、、
京橋にあった大阪支店時代は仕事でも付き合いでも酒が切れる事が無かった。
でも、私ばかりではなかった。
皆それぞれ二日酔い対策を考え、講じた。
私は昼休みに近くのカラオケボックスで1時間昼寝、もっと賢い後輩は少し時間オーバーするが、定期を使って出町柳駅まで往復して昼休みの時間を有効に睡眠時間に充てていた。
特急料金の要らない京阪のこの特急のシートは上等で居眠りにはちょうどよかったのである。
水の都大阪、京橋駅から続く天満橋駅、北浜駅、淀屋橋駅は商業都市大阪の基盤ともなった大川、堂島川と淀川水系の流れに沿って並ぶ駅である。
得意先に向かう途中、帰る途中、四季折々の風景を悲喜こもごもの思いとともに私は京阪電車に揺られていた。
生きるために必死であった。
そんな気持ちとともに車窓から見た大阪城公園の新緑や、桜ノ宮の造幣局に続く大川の流れに舞う桜の花びらを私は忘れようがない。
この時期の誰もいない中之島公園のバラ園を抜け、中央公会堂の脇を一人歩くと今でも涙が湧き出てくる。
それくらい思い出深い京阪沿線であり、京阪電車である。
今は高架化された京橋駅界隈、いつも飲み歩いていた高架の脇にかつては電車が走っていたと飲み屋の親父は酔うといつも私に教えてくれた。
そんな記憶も継がれるうちにだんだんかすれてゆき、誰もが忘れてしまうように私の記憶は私が死ねばこの世から消え去ってしまう。
皆が持つそんな星の数ほどある消え去る記憶がどこに行ってしまうのか、いつも不思議に思っている。
(ヘッダーの写真は京橋京阪沿いの東野田公園で撮ったものです。大阪で初めて花見に誘ってもらった懐かしい公園です。今年の春には皆が笑顔で桜の花の下で酒を酌み交わすことが出来たらいいなぁと思っています。)
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