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メダカのこども

さて、この写真は何でしょう?
禅問答ではありません。

タイトル通り、この器に小さな小さなメダカの稚魚がいます。
合気道の稽古にお借りしているレンタルスタジオの一階が石材屋さんになっています。そこの見た目はそうでもない、でも実は優しいご主人がこの器の持ち主で、隣の大きな石の水槽でメダカを飼っています。

天気の良い日は稽古前にご主人と立ち話をするのですが、今日は雨でいらっしゃらず、この器が一つ余分に出されていました。
生まれた稚魚を移しているんですね。
私のiPhone SEでは写らなかったのですが稚魚が10匹ほど泳いでいました。
たぶん生まれた稚魚はもっとたくさんいたはずです。

メダカに罪はありませんが、同じ水槽に置いておくと親は本能で自分より小さな動くものを自分の子とは識別せずに捕食してしまいます。これは自然の摂理です。
そのなかで水草などの陰で大きく育ったものだけが生き残れるんですね。これも自然の摂理です。

じゃあ、石材屋のご主人がやっていることは間違っているのでしょうか。
私は間違っていないと思います。
この水槽に残れた10匹は運が良かったんだと思います。
そしてさらに運の良い1,2匹が成魚になれるんだと思います。
運の良し悪しも自然の摂理の内なんだと思います。

さて、メダカの動きを追いながら人の命につい考えました。
私の兄のような障害者は人の助けが無ければ生きていけません。
障害者ばかりでなく、私たち健常者というおかしな名称のまあまあ普通に生きている人間だって誰かの助けがあって生きています。
一人っきりで生きていける人間はこの世の中で特殊な例を除き、ほぼほぼいないのではないでしょうか。

兄たちのことは運が良かったのかどうかは微妙です。
助けがあることに関しては運が良く、望まぬ身体でこの世に送り出されたことに関しては運が悪いのかも知れません。ならば、望まぬ身体でなかったら、、と展開するかも知れません。
しかし、成らぬことを議論することは憎しみといさかいを起こすだけです。
ただ、今を生きるしかないのです。

今を生きるためにこの世に出てきたからには、人の力に頼って何があっても生きて行かなければなりません。
世界中、どこに行っても同じでしょう。だから、人が人の命を奪うなんてことはもっての外、自然の摂理に反します。

メダカは阿倍野の石材屋の水槽で泳ぎその生涯を閉じます。
私たちも地球という守られた器の中で生き生涯を閉じます。
その生涯には何の違いも無いように思います
メダカには石材屋の親父の存在があり、私たちのまわりにはたくさんの石材屋の親父さん達がいるのです。

なのに不思議です。
メダカたちの方が私の目には幸せそうに見えます。

そんな考え事で、今日も私は稽古に遅刻しました。



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