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夏の餃子(さすらう餃子人)

暑い夏は餃子に限る。
無理して一から作ることはない。

ここ最近、我が家では市販の冷凍餃子を切らしたことが無い。
手軽で美味い、いつでも食える、これで言うことは何も無い。
ビールがあればなお嬉しい。

暑い夏に無理して家を出て餃子を食いに行く必要は無いかも知れない。
市販の冷凍餃子は秀逸である。
涼しい家の中に居ながら焼き立ての美味い餃子が食えるのである。

それでも昔ながらの単品の餃子屋ってのがあると私は嬉しい。
なのにそんな餃子屋を久しく見ることが無いのを残念に思う。
学生時代の餃子屋が私の餃子屋のイメージのベースとなっている。

西武池袋線東長崎駅のすぐそばにあった餃子屋だ。
暖簾をくぐり、その頃でも見ることの少なかった木製の引き戸をガラガラと開ける。
油にまみれながらもよく磨かれたコの字型のカウンターは清潔感があった。
丸椅子に座って壁の手書きのメニューを見ると餃子とビール、日本酒しかない。
仕方なしに早い午後に餃子とビールを頼んだ。
冷えた瓶ビールはサッポロだった。

二人前しか並ばない黒い鉄のフライパンで焼いてくれる。
ここまで店の親父は「いらっしゃい」しかしゃべってない。
音楽もかからず妙に静かな店だった。
その静寂のなか、カウンターのなかの小さな黒いフライパンから美味そうな音が聞こえてくる。
私の餃子たちを蒸し上げる音からチリチリと焼き目を作り上げる音に変わっていく。そんな心地よい音を聞きながら瓶ビールを飲んだ。
出てきた小ぶりの餃子は美味かった。

半分透き通った白い皮はツヤツヤ光り、焼き上げられた茶色い焦げ目はまるで太陽の日差しをたっぷり受けたひまわりの茶色のよう、学生の私の目にも一目で美味いだろうと想像できた。

酢と醤油、ラー油は山椒の利いた飛び切り辛いヤツ、厚めの皮に包まれたその餡はタレが無くとも十分美味かった、タレの付いた手づくりの皮は『餃子は麺類だ』説を十分に後押しできる食べ応えあるものであった。

あれから40年、いつもそんな店を探している。

自分でもおかしいと思うほどに、こと餃子の事はよく憶えている。
好きだった女性を探し求めるようにあの頃の餃子を探している。
互いの想いは一致すれども会えぬ餃子をまた探す。
いつの日にかその想いを遂げられるものと信じて会えぬ餃子をまた探す。


でも、涼しい風が吹き出す頃にまた餃子を包んでみようかな。

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