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七つの短編エッセイ

この note で知り合ったMasumiさんに時々私のエッセイが良いとほめていただきます。
私はMasumiさんの描かれる子どもの絵、動物の絵にいつも不思議を感じ、いつも元気をもらっています。一瞥で感じることの出来る絵画の力ってすごいですね。それは花でも宝石でも一緒です。文章には持ち合わせない力だと私は思います。そんなお力をお持ちのMasumiさんに今回おほめいただいたのは今回加筆修正したこの一編でした。

この元のエッセイもほめていただいています。このほか今回ここに挙げた『誰もいない温泉』『しゃべるピアノ』『クリスマスに思い出す』がお好きだと言っていただいています。
実はこのどれもを私も好きです。どれもが大事な我が息子のように思っています。

常々思います。自分が好きな文章、読んでいいなと思う文章でなければ人様の前に出してはならないと。
そう考え、日々生きる時間の合間に物書きの研鑽を続けています。
今回は既出の短編の私の息子たちを並べてみました。
どれか一編でも目を通していただければ幸いです。



『だれもいない温泉』わたしの読書

ご存知でしょうか、作者の千葉省三。(1892年明治25年~1975年昭和50年)
栃木県の児童文学作家です。
小学生の頃の私の好きな作家でした。
母が揃えてくれた『千葉省三童話全集』、その中にある『だれもいない温泉』というのが私が一番好きな作品です。

主人公の子供が夏のある日お父さんが地図で見つけた小さな温泉場を訪ねる話です。
バスに乗り、山あいのバス停で降りて歩き、たどり着いた温泉場には古い家が一軒だけ、そこが目的の温泉場でした。
ところが留守で、「勝手に入ってください。」と書き置きがある。
そして二人で湯につかり、休憩してお金を包んで帰った。

帰りのバス停までの道で、そこのおばあさんに二人は出会います。
一人息子が出征し、ご主人はたまたま里に降りているから留守にしてすまないとおばあさんは詫びます。
そのあとの道すがら、主人公の子供は「また来ようね。」とお父さんと約束します。

それだけの話なんですが、ずっと心に残っています。
そこから想像出来る風景もさることながら、鍵もかけず客を受け入れる飾らないこの温泉場にいつか行きたいと子供心に私も思いました。

とても短い短編です、だからなおさら私の想像は膨らんだのでしょう。
その頃にはあって今無いなにかがそこにはあります。
いつまでも読み継がれてもらいたい作品であって作者です。
まだ小学校に上がる前、母は障害のある兄のために昼寝前、夜の就寝前にいつも本を読んでくれました。
裕福ではない家だと子ども心にもわかっていたのですが、本にかける金には違う財布があったようです。
たくさんの児童書のなかの千葉省三童話全集が好きでした。

ずいぶん処分した紙の本ですが、半年前の引っ越しの片付けがまだ済まぬまま、この全集だけは捨てることが出来ず自室の段ボールのどこかでまだ眠っています。


『しゃべるピアノ』 #ショートショートnote杯 応募作品 その5

十八世紀、イタリアで生まれたピアノは、今ほどおとなしくなかった。その頃はとてもおしゃべりだった。しゃべることが当たり前のことだった。
当時は教会で神父の指導のもと、信者と讃美歌を歌い、神父とともに懺悔を聴いた。神父の良きパートナーだったのである。
神父との仲のこじれは少女アンナへの恋からの仲違いからだったのである。神父の少女への禁断の恋、そしてピアノのピアノ界での逸脱の行為、二人は道を外していた。神父は神に仕えて初めて嘘をついた。自身の禁断の恋を棚に上げ、ピアノの逸脱だけ神に報告したのであった。
神はおしゃべりが過ぎていたピアノにお灸をすえる機会を見計らっていたところであった。
そして、『しゃべるピアノ』は現在のピアノとなった。
そんな大人の事情など知る由もないアンナがおじさん神父など相手にするわけがなかった。
音楽を愛したアンナはピアニストとなり、死ぬまでピアノを愛で、大事に弾き続けたのであった。


クリスマスに思い出す

早いもので十二月は三分の一を終わろうとしています。
月が変わる前から街を歩けば、クリスマス一色です。
流行り病で皆さんが我慢していたいろんなものが膨らみ、弾けているようにも思います。
私が子どもの頃に今ほどクリスマスだからといって各家庭が、街中が大騒ぎまでしていたのか記憶にありません。
ケーキに興味はなく、サンタクロースよりも年始で我が家に酒を飲みに来る、お年玉をくれる父の会社のおじさんたちのほうが好きでした。
でも、毎年母が、勤めていた病院に出入りしている食品納入業者からB5サイズほどの大きな板チョコを兄と私に一枚ずつ買ってくれたのを憶えています。
駄菓子屋で買うチョコやスーパーのアルファベットチョコを食べると季節は関係なくこの板チョコを思い出します。
カカオの含有率の低い、いわゆる安いチョコだったのです。
トナカイとサンタクロースの絵のついた板チョコでした。
少しかじって冷蔵庫に置いておくと知らないうちに無くなってしまいました。
兄が食べていたのです。
でもよかったんです。
それほどチョコは好きではなく、お菓子に執着はありませんでした。

クリスマスといえば必ずこのサンタの板チョコを思い出します。

この年齢になって思います。
母なりに当時の我が家で出来ることを考えていたんだろうなぁ、と。
それでよかったんだと。
物質で満たされることがすべてではないと思います。
そして、その時にわからなくともあとから「あっ、」と思い出すのがいいように思い、そんなことが出来たらいいな、と思います。

決して計画して出来ることではないでしょうが、『思い出の時限爆弾』とでも呼べるような、そんなことをこの先たくさんできたらいいなと思います。
いつの日か、クリスマスプレゼントにそんなことが出来たら最高だろうな、と思います。


ビー玉と私

私の机の上には数は多くはないが、机上での作業に無用な物が置いてある。
もう何年も動かしてない懐中時計、作りかけのパズル、ネコ柄のぐい呑み、そしてビー玉などがある。
子どもの頃、郷里愛知県の太平洋岸の砂浜でシーグラスを拾った。太平洋ロングビーチに続く豊橋市の海岸には私が行く時間にはいつも誰もいなかった。砂浜の波に足を触れさせながらいつも太平洋の端を踏み歩いた。そこで見つけたシーグラスは、ガラスの破片が波に揉まれて角の落ちたものと気付くのには時間はかからなかった。いろんな色、いろんな形のシーグラスをネスカフェの空き瓶にためていた。それをある時従姉に「欲しい」と言われてやったのである。代わりに何かをくれるというのだが、欲しいものは何も無かった。「じゃあ、お金を」としつこく迫る従姉から逃れたくて従姉の机の上にあったいくつかのビー玉をもらった。もう50年も前のことだ。その従姉は急逝し、もうこの世にいない。従姉の形見となったビー玉も残りは一つだけである。でも一つきりのこのビー玉はいつまでも形は変わらず曇りもない。
そして最近、時々私に話しかけてくる。ひょっとして付喪神つくもがみが憑りついているのかも知れない。

この可愛らしいビー玉はある時から外出時に手離せないものとなっている。便利な世の中になった。ハンズフリーで会話を行う若者が増えてくれたおかげで私がポケットのビー玉と会話をしていても奇異に思う人間はいない。
私は一人でJRで天王寺まで行き、東急ハンズで季節の絵葉書を求め、金額を確かめ支払いを済ませる。コンビニで100円コーヒーを買い、蓋をしてまた歩き始める。「おい、お前はどこに向かっているんだ」ビー玉のタイミング良いその問いかけで我に返ることが出来る。自分が持つバッグに重い稽古用の道着が入っているのに気づき、また我に返る。道場に着き、管理会社の社長とばったり会う、するとまた胸元から「おい、社長だぞ!お前が道場借りてる先の!」「挨拶しろ!」私は事なきを得て管理会社の女性社長に挨拶し、世辞を述べた。道場にはいるとビー玉は口をつぐむ。不思議である、40年も続けているからか、道場に入り道着に着替えると私の身体と私の口は一人でに動き出す。『食べる、寝る、排泄する』のと同様に合気道は私の本能に近いものとなり身に染みついているのかも知れない。

これが私の最近の日常、医師の診断に従いアリセプトを服用し始めて一年が経過する。

【これは架空の話です。アルツハイマー型認知症だった母と長年付き合いました。初期段階での母はそれまでの自身と新しい自身との境界を行き来し、ずいぶん苦しんだようです。そばにいて、絶えず声をかけてやりたかったと思いました。それが出来なかった自分を責めた時期もありました。
しかし、私が自身を責めることを母は喜ばなかったでしょう。
今そうビー玉に諭され、目の前にいるビー玉と会話しながらこの文章を書きました。】


夢のつづき

列車は来た。
ホームに入って来たものの、ドアを開けることなくしばらくすると静かに動き出した。
その列車に若者たちと乗っていた代表はそこで初めて私に目を合わせてきた。
「いいんだ、それでいいんだ」と目で言っているのが分かった。
その列車を見送りなんとも不思議な気持ちでいるとまた列車が入って来た。
時間を確認するとそれが最終列車であった。
代表は「降りる権利を与える」とだけ言っていた。
先ほどの列車に私は乗る権利が無かったのである。
田舎のしかも最終列車である。
少ないが客はいた。
普通の列車であった。
乗務員のアナウンスも流れ私は安心した。
それでよかったのか、よくなかったかは分からない。
ボックスシートに身を委ねぼんやり外を眺めた。
白銀の山々はずっとそこにあった。
月明かりで煌々と輝いていた。
一日の疲れと安堵からか、耐えきれないほどの眠さが襲ってきた。
でも私はどうしてもここで眠ってはいけないような気がして必死に眠さをこらえて起きていた。


「夢のつづき」のつづき

もともと夢を憶えていないほうだから、休みの昨日、昼寝をしていて見た夢は初夢だったのであろうか。
寝汗をかいて目が覚めた。

私は列車のボックスシートに独り座りボンヤリ外を眺めていた。
海岸線を走る列車の右手には月の光を反射する白銀の山々がそそり立ち月の明かりばかりか私たちのまわりに渦巻く嘘も生き辛さも跳ね返すかのような白い輝きを放っていた。
左手には漆黒の海が横たわり唸り声をあげてうねる波は白い輝きが跳ね返すすべてを吸い込むようであった。
そして私には分かった。
怖い、痛い、辛い、叫び声や女や男の泣き声が黒い海に飲み込まれていくのが。
でもそれが聞こえるのは私だけようであった。
まばらに座るほかの乗客たちは皆まどろみ、幸せそうに寝息を立てる者さえいた。
効きすぎる暖房と薄暗い車内灯が私もまどろみに誘うが私は寝てはいけなかった。
そして、違う列車に乗っていったはずの代表が車両のドアを開け入って来た。
私をめがけて向かってくる。
「いいんだ、それでいいんだ」と目で言った代表は私に何かを言おうと口を開いた。
私は身動きができず成り行きに身を任せるしかなかった。

そこで私は目が覚めたのです。


夢のきおく

夢は毎晩見ているのであろうが、たぶん社会人になってから朝起きて夢を記憶に残していることがあまりない。
大学生の頃によく夢を見ていた。同じような夢を何度か見た。もしかしたら私が以前生きていたその世の記憶なのかと思える夢を見ていた。

私は都会に住んでいた。それが東京であるかどうかは定かではない。時代は今よりもずっと前である。街中を歩くと年配、いや老人たちのなかにはまだ着物を着ている者もいる。そんな時代にも生きていたことがあるような気がする。洋風の建物に住み、広めの裏庭と外部とのく境には背の高い塀が立っている。レンガ積みの妙に頑丈そうな塀なのである。そしてその向こうには路面電車が行き来しているようであった。その姿は見えず、音だけがその通過を私に知らせてくれた。いつも登場人物は私だけである。塀の向こうをのぞいてみたいのだが誰かに咎とがめられるわけじゃないのに憚はばかられる。時折聞こえる路面電車の通過音を耳にしながら建物の中で本を読んでいる。そして、いつも紅茶を飲んでいる。珈琲ではないのだ。紅茶を違和感を感じずに飲んでいる。いつも落ち着いた昼下がり、誰もおらず一人ゆっくり紅茶を飲んでいる。いつまでも時間が止まってしまっているかのようである。そんな時間が嫌いじゃないから平気なのだが、その時間が長すぎると一人だからか不安になる。そして誰もいない建物から抜け出して裏庭に出る。そのまま、まるでコソ泥のように塀に向かうのである。前まで行きそしてまたあたりを伺って塀に飛びつくのである。塀の天端をつかみ身体を引き上げ向こう側の景色が見える瞬間に夢は終わってしまうのである。

今はもう見ることのなくなってしまったその夢を時々思い出す。そして、裏庭の向こうにあった世界が気になるのである。故郷豊橋にも路面電車はあったが、今も走る豊橋の路面電車は広い通りの真ん中を走る。初めて大阪の路面電車を見て驚いた。民家とすれすれを走っていくのだ。夜、終電が無くなるとよく軌道を歩いた。途中阿倍野警察署のそばの屋台のようなタコ焼き屋でタコ焼きを食って、「裏に止まってるベンツは親父さんのかい?」と聞いたら真顔で「そうだ」と言われて驚いた。そしてまたトボトボと歩いて帝塚山の社宅まで帰った。高級住宅街の坂下にはあいりん地区に続く町があった。そんなアンバランスな大阪が不思議であった。でもそれは最初のうちだけ、すぐに大阪の混沌は当たり前になってしまった。学生時代にみた不思議な夢は私の近未来を暗示していたのであろうか。しかし塀の向こうを見たわけではない。と、いうことは私の近未来はまだ大阪で確定ではないのかも知れない。
既視感のようなものを感じる風景と途中で区切られた昔みた夢とが行き来する。
なんだかボンヤリしたピントの合わないモノクロ写真を見ているような私の記憶なのである。


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