また今日を生きる
先週のこと、朝から心斎橋まで用足しに出かけた。
久しぶりにサラリーマン時代にいつも乗った時間のJR大和路線に乗った。
当たり前であろうが通勤の乗車客ばかりである。
当時毎朝見かけた人が何人かいた。
いつも皆立つ場所、並び方はほとんど一緒で私の記憶に残る光景とそれほど変わってはいなかった。
同じ生活、毎日同じルーチンの中での仕事が私には向かない。
ストレスが蓄積していく。
そういう意味では建設業の営業は向いていたのかも知れない。
いつも輻輳した案件を時間は関係無しで追いかけ続ける、そんなストレスには強かった。
でも今思うのは、父親の背中を見て育った私の日本の高度成長期からバブル期にかけてそうだった男は外で働いて金を持って帰ればそれでいい、というのは間違っていた。
家庭に支えられて仕事をしていることを忘れてはならない。
その歪みは必ずどこかに出てくる。
難波から心斎橋まで歩いた。
難波まで行くJR大和路線の乗客は天王寺、新今宮で多くは降りてしまった。
思ったより静かな難波駅であった。
一日の始まりを感じながら今までの『生』を考えていた。
春は思いのほか多くの記憶を甦らせる。
それが好きでもあり、嫌いでもある。