酒を飲まずに酒飲を考える
自分が歳を取るだなんて考えることのない若い時代は誰にでもあるであろう。
自分が歳を取ることを真剣に思い詰めて生きる人間も少ないだろう。
行き着くところ辺りまで行って「ああ、歳を取ったな」、そう思うのではないだろか。
そして、それはやってはならないことをするのと同じじゃないかとも思うのである。普通の人は理性がそのやってはならぬことを止めるのだろう。
でも、戦争では理性の箍が外れてしまい、大義名分を持って人の命を奪い去り、それから胸を張って両親、家族、愛する愛される人の待つ家に帰っていくのではないだろうか。極度の興奮状態は続きそれは徐々に薄まっていき、そして良心の呵責に苛まれるのではないだろうか。それと何が違うのであろう。
酒飲はどうであろう。
酒を飲みチンピラと喧嘩をし警察に引っ張られ、酔っぱらい焼肉屋の看板を壊し弁償して、酔いの力で後輩を無理やり飲ませて救急車に乗せる。
そんなことは母に説教されずとも「またお前かと」警察署で警官に机を叩かれずとも自分でダメなことと分かっている。
やったことを美徳にするつもりは毛頭無い。悪いことに決まっている。でも頭で理解することと、心で理解することとは違うのではないかと思うのである。
私が修行の足らない見てくれだけがジジイの、頭の中身はスカスカのスポンジなのかも知れない。でも、酒が本当に悪いものであるならば、とっくにこの世から消え去っているであろう。某国与党が料亭政治を止めれぬばかりが酒が消え去らない理由じゃないと思う。
酒に責任は無い。
要は、一度、子どもの時期を通り過ごして、心得て大人として飲めばいいのである。
「両人対酌山花開 一杯一杯復一杯」と李白のように酒を飲めるようになるのにはそれなりの経験があってのことだと思う。李白はただ頭ばかりが良い人じゃなかったと思う。
そして、飲酒に限らず、なんでもとことんやってみなければ分からないことがあるものである。
本当の理解、カウンセリングでいう「気づき」みたいなものをもって初めてその時は来るんじゃないだろうか。そうしたら、飲み方は変わると思う。酒を飲むのではなく、酒を楽しみ、酒を楽しみのための道具として使えるようになるのであろう。飲まずに人を飲ませる楽しみも知れるようになるかも知れない。
そこに辿り着くまでの道のりの険しさは様々かも知れないが、誰もが必ず辿り着くことのできるそれなりのゴールが待っていると思う。そしてこのゴールもそこまでの道のりと同様で一様ではないのである。
若者たち、決して怯むな。今持てる節度をもってとことん飲んでみるがいい。未成年であったとしても全ては自身の責任とせよ。成人であるならばもちろん行き着く先まで想像して飲んでみるがいい。その結果は生涯に渡って頭ではなく、心のどこかに残っているに違いない。
そうすれば、本当の大人の仲間入りができるのである。
酒は悪いものじゃない、良いものである。自分次第なのである。
菊地兄貴の記事を読みながら、酒を飲まずに考えました。