見出し画像

荘川の桜(母ハルヱの人生)

もう二年も前のこと、この note にやって来たばかりの頃に書いた母の
若かりし日々を書き直しました。
よろしければご一読いただきたいです。

時季外れの桜の話である。
私はこの時期の緑の桜が好きである。
一年に一度、その身に晴着をまとうその時期だけ桜は皆に愛でられてその存在を知らしめる。
今、濃い緑に包まれた桜の木はその体を安めにやって来る鳥たちのさえずりを聞き、虫たちの盛夏に向かいたくましく育つ生を眺め楽しんでいるのではないだろうか。
そして桜は私たちの姿を生き方をその生涯をずっと見守り続けて来てくれたのではないだろうか。
私は緑の桜を見て思い出す。母、ハルヱが若かりし頃、その目にしたという岐阜県高山市にある有名な『荘川桜』のことを。

御母衣みぼろダム建設のために移設されたというこの古老の桜のことは多くの人が知っている。
ダム建設は私たちが日常生活を送るために必要不可欠なものである。
そして、その建設によって失われるものがある。
建設地に暮らしていた人たちの生活が奪われてしまう。
名もない樹々や動植物、昆虫たちの住み家も奪われてしまう。
私たちの利便のためにそれまであった営みが失われる。
それはそれで仕方ないと、世の利便を享受する多くの人たちのために認められてしまう行為なのであろう。

今からここに書き留めるのは、このダム建設のために水没する予定であった『荘川桜』の移設の話ではない。
ダム建設には多くの人々が関わる。その中の登場人物の一人、母ハルヱの話である。

ダム建設には大きく二つの目的がある。治山・治水のためと利水のためである。大雨による土砂災害・洪水の被害を防ぐ目的のダム、農業用水や発電を行う目的のダムである。
この御母衣ダムは発電のためのダムである。
通常ダム建設には長い時間がかかる。計画から工事、竣工まで10年、20年、もっとかかるものもある。だから、建設会社の土木職員の中のダム屋には40年ほどの会社人生の中で数個のダム建設しか経験しない者もいる。
余談ではあるが、建設会社の技術職員は大きく建築、土木で分けられる。
そして土木職員は、ダム、橋梁、トンネル、造成などの専門分野に分かれる。どの工事も建築と比べると工事期間は長い、その中でもダム建設の工事期間は特に長い。長い建設期間のなか、多くの労働者が従事し、多くの関係者がダム建設を支えるのである。

母ハルヱは看護師としてこの御母衣ダム建設工事の診療所に勤務したのである。終戦後、長野県上諏訪の日赤病院からハルヱは実家の山形県南陽市赤湯に帰った。そして家業である農業の手伝いを数年間していたそうである。
この二十代で過ごした数年間、故郷における姉達、友人達との生活がが母ハルヱの人生における春爛漫の時期だったのかも知れない。しかし、高度成長期の迫りくる音を聞き逃さなかった祖父三次郎はいつまでも家業の手伝いをする母の背を押して東京に行かせた。ハルヱは、つてを頼り奉職した大学病院で御母衣ダムの現場の診療所勤務を命じられたのである。


樹齢五百年という荘川桜はこんなハルヱの過去は知りません。でも、たった二年の間ですが、母ハルヱは診療所勤務で看護師として汗を流し、東京育ちの医師家族の世話をしながらこの御母衣の地でも青春を謳歌したに違いありません。私が目にしたことのないそんなハルヱを『荘川桜』は目にしてるはずです。私の知らぬ母ハルヱを『荘川桜』は知っているはずです。


時は遡り、五十数年前の東京、私はまだ就学する前であった。母は兄の手をしっかり握りしめ雑踏をかき分けるように進み、私はその後をちょこちょことはぐれないように一生懸命歩いていた。
まだ望みを捨てていなかった母は、馴染みのある医師のツテで兄を連れて都内の大きな病院を一軒一軒渡り歩いていたのだ。出生時の無理が兄に難治性てんかんという不治の病を背負わせた。世のすべての母親がそうであるように母には兄のために厭うものなどなにもなかったのである。雑踏での母の後ろ姿と病院の薄暗い待合室の思い出しか、子ども時代の私の知る東京にはない。
そんな私を不憫に思ったのであろう、ある日私は一人で六本木の病院に預けられた。私と同じ苗字の付くその病院の先生も奥さんも親戚でもないのに妙に馴れ馴れしく母と嬉しそうに話しをしていた。「おハルさん」と母を呼ぶ。母も東京では見せることの無かった笑顔をその二人の前で見せていた。
そして、泣いた。

ここからさらに十年以上時間は遡る。現在からであれば六十年以上前になる。先生、奥さん、母ハルヱは御母衣ダムの診療所にいた。ダムは電源開発の発注、国と電力会社各社が株主である日本の建設を下支えしてきた会社である。先生は奥さんと娘二人と共にそこの診療所に派遣されていた。
先生は東京育ち、奥さんは育ちは地方ではあるが大きな食品会社の社長令嬢、二人とも山なかでの生活などしたことはなかった。奥さんはそれまでに看護師の資格を取り、診療所の業務を手伝い、幼い娘二人を育てながら家事もこなそうとしていた。必然的な無理はあった、そこにハルヱが登場したのである。看護師としての業務はもちろんのこと、家事も娘の相手も全てハルヱが手伝ったそうである。駆け出し看護師の奥さんは診療所の師長にいじめられたそうである。そしていつもハルヱが慰めたそうである。ハルヱは二人と娘たちの慣れない山奥での仕事、生活の支えになったのである。

建設現場は3Kの代表選手である建設業の最前線、当時の最新の建設機器を導入しての工事ではあったそうだが現在とは比べものにならない。事故は多く、重傷者が多かったそうだ。村の診療所としても機能していたそうである。想像でしかないが、朝から晩までずっと忙しいダムの診療所だったに違いない。天衣無縫のハルヱはともすれば陰気になりがちな診療所の雰囲気を明るくし、先生一家にも元気と明るさを与えた。

それだけでも十分おハルさんには感謝しなければならないのに、大きな事件でおハルさんには一生頭が上がらないと先生と奥さんは言った。診療所での大きな事件とは火事であった。人の命を預かる診療所で傷病以外で命を落とすことなど決してあってはならない事だったと言う。診療所長である先生の進退や将来にまでかかることだったのである。
なのにある日、診療所で火事が起きてしまった。そして、その時まだ中には年老いた夫婦が残っていた。その事に逃げ出してきた皆が気付いた時にはおハルさんはすでに火の中に飛び込み、しばらくすると病身のおじいさんを背負い、おばあさんを手に引き出てきた。安堵の中、皆は拍手喝采だったそうである。行動の早い人であった。何を一番にすべきかすぐに判断出来る人であった。母の存在無しに診療所生活を乗り越えることは出来なかったと、先生と奥さんは言ってくれた。
これは子どもの頃一人預けられた時に聞いた話じゃない。先生たちだって子どもにするような話じゃないと思っていたに違いない。このことはほんの数年前にグループホームにいた母に会いに来てくれた先生ご夫妻から聞いたことなのである。母は一言も私にそんなことがあったことを語ることは無かった。良くも悪くも多くを語らない女性であった。

荘川の桜は見ていてくれたに違いない。
母ハルヱの飾らない勇姿を。
実はハルヱはこの御母衣ダムで一人の女性の人生を変えていた。
そして、そのことも母は私に語ることは無かった。

時間は今に戻る。両親の介護・看病、兄の世話のために私は会社を休職し愛知県豊川市の実家にいた。そこで取った一本の電話からだった。
母と同じ東北訛りで「ハルヱちゃいますか」とヨッちゃは私に告げた。
母ハルヱのことをハルヱちゃと呼んだのは、母の幼馴染のヨシ子ちゃん、ヨッちゃだった。東北の訛りは冬場、寒さで口を開けれず、あまり口を動かさないことで出来上がっているそうである。
ハルヱちゃんハルヱちゃよし子ちゃんヨッチャ、ならば唇をたくさん動かさなくともよい。
父が死ぬ半年前だった。私は会社でまだ誰も取得していなかった介護休職を利用して寒い二月に一人実家に乗り込んでいた。父は若い頃の輸血がもとでC型肝炎を患い、末期の肝硬変に移行していた。母のアルツハイマーも進行し、重病の父にはもう面倒を看ることは出来なくなっていた。そして、正常な人間としての機能を果たすことの出来なくなった二人のもとにいた兄は栄養失調になりかかっており、持病のてんかんの主治医に電話で相談するとすぐに連れて来いと言われ、静岡県にある神経医療センターへ緊急入院となった。

そんな時にヨッチャは母に電話をくれたのである。
「年賀状が気になって、、」と言う。
もう年賀状など書ける状態ではなかったはずなのに、母はヨッチャに書いていた。母にもそれほど強い気持ちがどこかに残ってたようだ。
母とヨッチャは昭和5年1930年に山形県南陽市赤湯で生まれた。赤湯はその名のごとく温泉の街、しかも温泉と冷たい地下水の湧く緑豊かな農村でもあった。夏は米、そしてサクランボに始まり葡萄、西洋梨、林檎など母の言葉を借りるとバナナ以外のあらゆる果樹を生産していた。国道4号線沿いを夏に車で赤湯を走ると小高い山々に張り付く葡萄畑の緑はそれぞれが微妙に色が違い、私の目にはパッチワークのように映った。
冬はいろんな色を白一色に雪が塗り替えてしまう。静かな静かな冬である。
母の家は大きな農家、ヨッチャの家は小作農家、小さな小さな家だったそうである。家が近いこともあり姉妹のように二人は育った。しかし、悲しいことにヨッチャのご両親は働くことが好きではない人達だった。ヨッチャはほぼ放棄に近い状態のなか育ったようである。
母の姉に聞いた。母はいつも二着ずつ新調してもらっていた着物の一着を、いつもヨッチャにあげていたそうである。そしていつも歳の離れた長女に怒られていたそうである。でも、母は意に介すことはなく、叱る長女もハルヱの性格をよく知っているのでそれ以上なにも言わなかったそうである。
終戦後の母が農作業の手伝いをしている時代、二人には二人だけの小娘らしい楽しい時間があったはずである。

そんなヨッチャも故郷赤湯に残して母は御母衣ダムの診療所に流れ着いていた。そしてしばらくしてからである。そこで働く多くの作業員たちが寝泊まりする飯場に母はヨッチャを呼び寄せたのである。人付き合いの上手な母がダムの元請け業者の責任者に頼み込んで実現したことのようである。母のこと、たぶん山形からの旅費も用立てしたに違いない。ヨッチャは飯場で飯炊き、掃除、雑用と一人で数人分の仕事をこなしたそうである。
休みには母と会う時間もあっただろう。楽しく幸せな時間だったに違いない。そして、ヨッチャは現場の元請け業者、一部上場の建設会社の社員と結婚して幸せな生活を送っている。

父の看取りをし、母と兄の終の住処探しをするなかでのヨッチャの電話は私の心にずっと残っていた。そしてこの話も母がこの世を去りヨッチャ、東京の先生ご夫妻、母の姉から聞き取ってわかったことである。たぶん、母には当たり前のことだったのだと思う。だから私にわざわざ話などする必要はなかったのだろう。すべてが母の記憶のなかだけで終わってしまっていても誰も困りはしない。ある意味、男らしい考えでもある。
今思い返すと母の認知症がかなり進行してしまった時に父に頼まれ母を最後の里帰りに連れて行った。その時に寄り道をした新潟のヨッチャがその人だった。腰の悪い母が長い時間立ったまま嬉しそうに話をしていた。同じ話を繰り返す母にヨッチャは笑顔で相槌を打ち続けていた。そこで二人の尋常ならぬ関係を見抜けなかったことを今になって悔やまれる。二人にしてやれたことが残っていたかも知れない。でも、もうどうにもならないことである。
母が死んでヨッチャからお悔やみが送られてきた。転んで右肩を骨折したとのことで、たどたどしい文字で書かれていた。
「もう一度ハルヱちゃに会いたかった。感謝してもしきれない、ありがとう」と。

何も言わない母を尊敬する。しかし、誇ることのなくあの世に行ってしまってからポロポロ聞こえてくる事実は私には迷惑でかなわない。
私に涙をポロポロと流させるのだ。
荘川のさくらは500年もの長い間こんな人々の人生を垣間見てきたのであろう。
若い頃の母を見守ってくれた荘川の桜に、いつか挨拶に行かねばならないとこの時期の緑色の桜を見ると私は思い出すのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?