扉を探す猫
我が相棒だったトラとブウニャンがそうだった。
一番記憶に残る40年以上も前にともに生活したブチ以来何匹かの猫の中でこの2匹だけが完全な家猫だった。
家猫である彼と彼女には私たちの知らない扉があるようであった。こんなことを書けば『夏への扉』のピートを思う方がいるであろう。でもそれとは違う。我が同胞の猫達は私には見ることのできない扉をいつも探しているようであった。
私は彼らを24時間監視したことは無い。仕事や用事で家を留守にしている間に二人が何をしているかなど詮索したことは無い。私が帰ればなにごともなかったかのように横になったまま眠そうに首だけもたげて「ニャー」と鳴くのが常だったのである。
でも、そんなトラとブウニャンは時々私の目の前でリビングの壁に向かったり、階段の踊り場の壁に向かって黙って座っていることがあった。その姿はどう見ても何かを待っているようにしか見えないのであった。
ここからは私の推測である。猫たちには私たちの知らない扉があるのではないだろうか。時々ぽっかりと穴があくように現れて、その扉を自由に行き来してるのではないだろうか。その向こうに何があるのかは知らない。彼ら彼女らにとって非常に心地よい場所か、もしかしたらこちらと全く同じ世界かも知れない。そことの行き来でいつも平穏な精神状態を保っているんじゃないかと思うのである。ドラえもんの「どこでもドア」はまんざら夢の世界のことじゃないように思うのである。そして、「どこでもドア」はのび太のためじゃなくてドラえもんのためにあったのではないのだろうか。
家猫たちは私たちの知らないストレスを抱えて生きているに違いない。でも私の知る2匹がイライラする姿を見せることは無かった。従順でおとなしい、そう、いわゆるいい子であったのである。自身で選択することの出来なかった家猫への道は100%幸せだったのかどうか、私には分からない。
幸せに出来たという自信は無い。
猫たちの本来の生き方ってどんなカタチだろうかと思う。
それが分からないなかで、私たちの都合で家に閉じ込めている彼ら彼女らにそんな扉があってもいいんじゃないかと思うのである。
猫も人間も同じなんじゃないかと思うのである。