研師(とぎし)ヒデの話 (多様性の森に彷徨う若者)その2
ヒデは大阪に戻りその足でマルの店に寄った。
「マルさん、熱燗おくれ」
「ヒデちゃんこんな遅い時間に珍しいわね」
ヒデがマルの店をのぞくのはいつも開店直後の客の少ない空いた時間だった。
智たちと別れてヒデは駅前の焼鳥屋で一人で焼鳥を食いながらどう手を打つかを考えていた。
軟骨の焼き加減、塩加減の良さに舌鼓を打ち、「なるようにしかならんな、でも許すわけにはいかんな」と、串を一本爪楊枝替わりに失敬して大阪に向かう電車に乗った。
そして大阪に着き、ヒデはまっすぐマルの店にやって来たのである。ヒデは一つが終わり、次に移る際に酒を飲む。呑んで巡り出す考えはいつも的から外れることはなかった。
マルは考えるヒデに話しかけることはなかった。その先にはマルの知らない世界があって決してマルが踏み込んではならない場所だとわかっていたのである。ヒデはまた二合の酒を飲み、マルの焼いた玉子焼きとおでんの餅巾着を食い、マンションに引き上げた。
すると、ヒデが思っていた通り八丁念仏団子刺しの唸り声が玄関の外まで聞こえていた。鞘に納められたどの刀剣もヒデがその刀身を引き抜くまで口を開くことは出来ず、唸るばかりなのである。でも他の刀剣たちとこの団子刺しは違った。見かけの平和なこの世の中を生きる我が身を嘆く刀剣たちとは違い、団子刺しは怒りの唸りを上げていたのである。
ヒデは手を洗い、顔を洗い、清めた気持ちで団子刺しを手に取った。そして鯉口を切った瞬間に「あー、待ちつかれたぞ。お前、一人で酒なんか飲んでくるんじゃない。さあ、これから松井を斬り捨てに行くぞ。」団子刺しは戦国の世を生きてきた。だから人を斬るのは当たり前、そのためにこの世に存在して来た刀剣なのである。
「まあ、待てよ。今はそんな時代じゃないんだぞ」すべてを知る団子刺しにヒデは自分の考えを話しした。
松井は智の勤める障害者施設の副施設長であった。大学で福祉の探求をし、海外を放浪しながら世界の福祉を見てきた智が尊敬する上司であった。その松井が事件を起こしたのである。
事の起こりはある夜の利用者の入浴介助であった。智の勤める施設には若い利用者が多かったが、そのなかに視覚と知的の障害をあわせ持つ高齢の男性がいた。ショートステイ中に不運にもその時の流行り病で唯一の肉親を失い、天涯孤独の身になってしまった男性だった。軽い知的障害の男性は自分で身体を洗うことができ、智は傍で話をしながら見守りを行うだけで良かったのである。そしてその会話の中で智は凍り付いてしまったのである。
「昨日は松井さんと風呂に入って、本当に気持ちが良かった」そういう男性に智は「良かったね、背中でも流してもらったの」そんな普通の会話だろうと思っていた智は冷や水を浴びせられたような気になった。「松井さんが僕のチンチンの皮をむいて洗ってくれて気持ちがよかった」しばらく言葉が出なかったが智は聞き返してみた。そして同じ言葉が返って来たのである。
看護師の行う入院患者の陰部洗浄ならば話は分かる、松井がなんでそんなことをしたのか智には理解ができなかった。でも考えを進めるうちに尊敬する上司の姿はガラガラと崩れ去ってしまった。
男性は長く施設を出たことがなかった。夏の熱い陽にさらしてその肌を焼くこともなければ、真冬の木枯し吹く寒日の空気でその身を縮めることもなかった。春秋の心地よさばかりで出来上がった躰は男のくせにもち肌のふわふわの女のような肌をしていたのである。
ある考えにたどり着いた智は、意を決して年かさのいった施設長に相談してみた。「ショートステイの利用者さんに陰部洗浄を介護者は行うのですか」60手前の施設長は長く障害者福祉の畑を歩いてきているはずなのだが、すぐに理解ができなかったようであった。具体的に話せと言われて、智は松井の名前を出してしまったのである。
(続く)
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