LL(ロングロング)長屋の日常、人が『生きる』を考える河畔
LL長屋はループ線上を24時間止まることなく走り続ける回るアパートである。
LL長屋には多くの人が住み、さまざまな生活が営まれている。
人は長く生きていると老化する。そして時々認知症というものを発症する。それがイフにはよく理解できていなかった。人間の身体の仕組みとしてそういう状態に変化していく場合があるとAIのプログラムに書きこまれてはいたものの、しっくりした理解はできていなかった。
イフはアンドロイドである。高齢者の介護を目的に創り出され、このLL長屋を担当する介護担当のアンドロイドだったのである。イフは疲れを知らない。24時間LL長屋を歩き回り新しい認知症の老人を見つけ身のまわりの世話を行っていた。そして、イフの行動データはその管理元であるHaw(ハウ)※1 に随時送られていた。そして新たな認知症患者をイフが発見するとその時点からカウントが始まった。
ご多分に漏れることなくこの時代にも認知症はあり、時代が進み、医学はさらに発展を遂げていくつかの種類の認知症の症状改善はみられたものの、年齢なりの老化にともなう認知症はまだ防ぐことはできていなかった。アンドロイドに『働くこと』のすべてを委ねしまった私たち、働く必要の無くなった人間たちは1世紀前の先人たちが常に抱えていた『生きていくため』のストレスを失ってしまい、かえって若年性の認知症を増やしてしまっていた。
到来した働く必要のない世の中は私たちを最初は喜ばせた。しかし、管理され見かけは平和なこの世の中は、人類にとって歴史上一番悲惨な生活を強要したと言ってもいいのかも知れない。
イフの発見でカウントがスタートした認知症患者は360日目に収容される。平均して『L4』※2 に達するのが360日なのである。その日を境にしてLL長屋にまたあの古臭い「空き部屋あります」の貼り紙が長屋の移動とともにひらひらとなびくのであった。
私は隣室の古賀さんにその日がやって来るのを知っていた。イフが初めてやって来た日を記憶していたのである。私は古賀さんがどこに行くのか知っている。市内の4つの防災公園に建てられた高齢者収容施設は『久宝社緑地』の満杯を最後に、ループ線駅『明治』にある昭和の世に建設されたドーム型施設を改修して最新の施設にしたのである。
その日の前に私は世話になった古賀さんのためにささやかな宴を開いた。福岡出身の古賀さんのために筑前煮を炊いたのである。アングラで付き合う仲間たちが材料を調達してくれた。新古宮駅の売店のおばちゃん※3 も九州の人間だ。とっておきの甘い醤油を持ってきてくれた。レンコンだけが手に入らなかったのが心残りであった。レンコンが育つ泥の汚染が一番ひどかった。日本のどこにももう食べることのできるレンコンは無かった。
宴はささやかながらも気のいい連中が盛り上げてくれて終わった。私は新古宮駅前の古い古い鉄筋コンクリートのビルの地下のアングラ酒場※4 から古賀さんと歩いた。昭和なんて時代にサラリーマンが酔っ払ってともに肩を組み雄たけびを上げながら千鳥足で歩いたように。
明日から古賀さんは虹色に輝くあの尻有川の向こうのドームの中の人になる。「すぐ近くにいるんだから、いいじゃんか」と思いながらも割り切れない何かがあった。
私たちの前を通り過ぎていくLL長屋からイフの眼、いや監視カメラがこちらを凝視していたのを私は気付いていた。
日々進化するAI搭載のイフは私の行動を見ながらその頃から新しい考え方のシナプスを生んでいた。
ひと昔前のアンドロイドの眼からすれば私の行動はただの『無駄』であった。
でもイフは違っていた。
イフは私たちにとって『畏怖』であったが『if』でもあったのである。
でもその時、私はそれに気付いてはいなかった。
◎前回のLL長屋の日常
言葉の補足
※1 Hawは厚生省(Ministry of Health and Welfare)のことである。かつてあった厚生労働省は、労働の無くなったこの世では再び厚生省に戻ったが、誰も厚生省という昭和に生まれた呼び名を呼ばなかった。
※2 『L4』は平成でいう要介護度である。Level1~7まであり、L3まではイフ達介護アンドロイドの手によって世話をされるが、L4からは大規模収容施設に連れていかれた。
※3 新古宮駅の売店のおばちゃんは85歳で現役のホーム売店の売り子、90歳まで現役を契約で約束されている。手書きの文通の受け渡し役でもある。
※4 アングラ酒場は私が経営する本当の酒を飲むことのできる立ち飲み屋である。残念なことにこんな飲み屋の経営はこの頃禁止されていた。