浮世の義理
昨日の月曜日、仕事はお休み、朝から部屋にこもってやらねばならないことがあり没頭していた。
するとサラリーマン時代から大変世話になっている83歳の大先輩から電話である。
「夕方梅田まで出るから、来なさい。」と。
えっ、と思いながらも流行り病でしばらく顔を合わせていなかったのと、もうお会いすることは何度も無いのではなかろうかと思い「わかりました。」と返事をした。
そして、昼飯も食わずに片付けごとを済ませて梅田に向かった。
いつも自分の予定はありながらも、客や上司の都合でその予定は軌道修正しっぱなしであった。
加えて家族の介護・看病で、こちらも私の予定や都合を端から破壊して来た。
それもこれも浮世の義理である。
一人でこの世を生きるのは極めて困難なこと、誰かに迷惑をかけながら生きているのである。
所詮、この世はお互いさまなのである。
着ぶくれて浮世の義理に出かけけり
この句をつくったのは富安風生、私が生まれるずっと前にこの世を生きた同郷の愛知県豊川市出身の俳人である。
当時の逓信省に勤め、宮仕えをしながら浮世の義理を感じて出かけることもあったのだろう。
この十七音の中に義理と表現しながらも少し楽しみも感じているのか、いそいそとしている雰囲気を醸し出しているのが好きである。
この富安は酒が嫌いではなかったのだろう、人間が嫌いではなかったのだろう。
なんとも親しみの湧いてくる句なのである。
久しぶりの大先輩はお元気だった。
「会わせたい人間がいる。」と言っていたが、都合で来れなくなったと言っていた。
そんなことは私にはどうでもよく、久しぶりにお元気そうな顔を見ることが出来て嬉しくもあり、安堵もした。
長く続いた空白の時間の話をずっと聞き、飲んで、食べた。
早い時間に引き上げ、またの再会を約束して途中まで送って私も帰路についた。
永劫などということはこの世にはあり得ない。
そのひと時ひと時を大切にしなければならないと思うようになったのは、歳を重ねたからだろう。
若い頃には持ち合わせなかった感覚である。
なんとなく忙しい一週間がまた始まった。
良い酒ではあったが少し飲み過ぎたのか少し酒が残っているようである。
いつまでも縁の切れることのない酒、これも浮世の義理である。