サバの煮つけと冬のあかぎれ
まだ若い十代の頃の話である。
決められたレールに乗りたくはなく、かと言って知らぬ世界に一人飛び出すことも出来ず、大学へ行くまでの一年半の間を悶々として魚市場の仲買で働いていた。
これからの季節、水は冷たくなり今のような便利な薄いゴム手袋などは魚屋の小僧の手には入らなかった。生まれて初めてのアカギレは日に日に広がり深くなり、毎日軍手は血に染まり赤くなった。白い発泡スチロールのトロ箱に赤い血がつくのが気になった。
そんなことを今仕事するショートステイを利用する若者たちの手を見ていて思い出すのである。不安を洗い流そうとするのか何度もいつまでも手を洗い、これからの季節、彼らの手はアカギレだらけになるのである。
可哀そうであるが私にはどうにも出来ない。彼らの先の分からぬ不安はそれこそ魚市場で働き、毎晩先輩たちについて歩き浴びるように酒を飲んでいたあの頃と同じなのである。
私に出来ることと言えばペーパータオルで手を擦らずに叩いて水分を取って皮膚を傷つけないようにする事ぐらいであった。
先の見えない不安の苦しさはわかる。父が死の床に就き、母が認知症の冠をかぶり、兄は知らぬ間に寝たきりになっていた。そんな先の見えない不安な闇を一人で抜けきった後には私の性格は変わっていた。几帳面で責任感が強く、今日の仕事は徹夜して明日まで残すことは無かった私は、明日できることは明日しよう、とりあえず今何を一番になさねばならぬかを考えて、それだけをした。そして、どんなに辛いなかにも楽しさを見出していた。
私たち健常と呼ばれる大人たちは長く生きることや人生の経験で困難を乗り越えることが出来る。
しかし彼らにはそれが出来ないのである。それが困難な彼らには共に生きる人間が必要なのである。
家族だけの問題ではない、この世に生のある同じ人間の事、皆で考えなければならない事なのである。
汗にまみれ、涙にまみれて共に過ごす人間が必要なのである。
共感などというきれいな言葉ではない、共に生きる覚悟が無ければなんとも出来ないような気がする。
そんな世界に覚悟と勇気を持って飛び込んでくる若者たちがいる。
しかし、皆突き当たるのが収入の壁の現実である。自分の子を育て、安心して家庭を支えることが出来ずして赤の他人と共に生きるなんて出来るわけがない。
こんな事がいつまでも介護士見習いを卒業することのないであろう私のこの業界で働いてみての感想なのである。
とにかくこの業界で働く若い子らに明るい未来が見えるような世界にしてやって欲しい。障害者ばかりではない、高齢者介護の世界も同様である。一刻も早く変えてやって欲しい。人一人の命を取って動くような世の中じゃ良くない、この国はそんな国じゃなかったと思う。
サバの煮つけは美味い。私の手の血の付いたトロ箱のサバが食卓に上がることは今の世ではない。それくらい簡単に誰かが今の本当の真実を知る事で変わっていく事のような気がする。