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時には酒も飲まずに
「年賀状辞めます」とメールで連絡が来た。この新年は親族のご不幸、その次からからは会社での個人情報の厳格化と、形骸化を理由にやめるということであった。もう10年も前にやめてしまっている私には何も言うことは無かったが、彼が送ってくれる写真の息子が可愛かったので実は楽しみにしていた。酒が好きなのは私と同じ、雰囲気が好きなのであろう。深酒して翌日の打合せも平気でキャンセルするいい加減な男と思っていたが、そんな時期を脱したのかも知れない。40歳前後で結婚し、40過ぎて一級建築士を取った。そして最近酒を飲みながら聞いたのは、実は息子は養子だというのである。二人の事情、環境がそうさせたと言うのだが、多様性の時代に広く深く物を考える男だと見直した。こいつもただ酒を飲んでいたんじゃない、と思った次第である。
計算すれば来年、昭和100年を迎える。100年は長い、この間に本当にいろんなことがあった。太平洋戦争があり、高度経済成長期やバブル期を通過し停滞した日本しか知らぬ若者たちがあふれた今がある。昭和35年に生まれた私は65歳、オフィシャルに高齢者の仲間入りを昭和100年で迎える。考えるとなんだか感慨深いような気がしないでもない。
関西の某国立大学合気道部の60周年の記念式典に招待されたが、わりと真面目に最近膝が不調で、稽古にも支障があるので辞退させてもらった。私の卒業した大学合気道部も創部65年になる。学生時代に合気道普及の黎明期であった頃の話を先代合気道道主から伺ったことがある。「学生が未来の合気道の基盤となっていってくれるであろうから、大学に合気道部を作り育てた」とおっしゃった。
開祖植芝盛平に何を言われようが手弁当で本部道場師範を派遣し、道主自ら指導に出かけたとのことであった。先見の明があり聡明な方であった。
新宿若松町、当時の本部道場にウィークデーはほぼ毎日稽古に行っていた。日曜日は地方からの稽古者が来るから遠慮しろと、我が師範から言われていた。学生には演武大会で武道館の畳敷きやら、何かと手伝いをさせるから本部での稽古料は取らないのが当時の本部の方針だった。でも、学生は少なかった、現在七段、八段の師範たちがまだ指導員だった。そのモルモット替わりになり、毎回コテンパンに投げられ、締められるのであった。そんな中、木曜朝の道場長の稽古は清々しいものであった。当時もう70歳だった大澤喜三郎先生である。150cmほどの小柄な体躯ながら力むことなく大男も放り投げ、押え付けられればびくともしなかった。その大澤先生に学生で初めて模範演武の受けを取らせていただいたのが学生時代の私の大切な思い出である。
粋な先生であった。基本はスーツ、夏場は開襟シャツで道場にいらっしゃっていた。ソフト帽をいつもかぶっていた。講道館で柔道をやり、合気道に進んだ先生には帰りの歌舞伎町の通り道で、何故か怖いお兄さんたちが頭を下げていた。
5年ほど前に知り合いに連れていかれた大阪キタのクラブで、50年前に東京からやって来て店を始めたというママから「喜三郎先生から餞別いただいたのよ」と聞き、おったまげた。
なんとも粋な先生であった。
人は皆毎日を生きている。俺は今日一日何をしたのかと、落ち込む日が時にはあるだろうがそんな日々の積み重ねが100年なんだろうと思う。一つ目標を持ってまっしぐらに進めることは幸せである。でも、誰もがそうはいかない。自身の心身の不調もあれば、家族の不調もあるであろう。何もしていないようで前に向かっているのが人間である。一番大切なことは、今を生きることであろうと思う。何でもいい、生きることだと思うのである。
なんとなく、いろいろを思い出し、いろんな人の顔が私の頭の中をグルグルしていた。
酒も飲まずに朝からこんなことを考えていることが、時々だが私にもある。