豊橋の駅前の路地裏で
急な兄の受診で愛知県田原市まで行ってきた。都合の付く気楽な仕事をしているから、私は吹く風で右へ左へ舞っていく枯葉のようにいつでも言うなりに動ける身である。しかしながら、世の多くの、身内の長い看病や介護をしている皆さんと同様に、ボディーブローを平気な顔をして受けるボクサーのように心は確実に疲弊している。
親父よ、お袋よ、あんた等なにしてきたんだよと天に向かって石を投げつけたくなる時もある。
とまあ、いつまでも大人になり切れない私は、「ああそうだ」と、遠い昔を思い出し、大阪への帰りがけに豊橋駅前の路地裏に寄ってみたのである。
思い起こせば私はまだ小学生になっていなかった。
毎週末だったと思う、この路地裏に母と兄と三人で当時暮らしていた豊川のアパートからバスに乗って通っていた時期がある。
両親の兄への淡い期待があったのである。
通っていたのは楽器屋の二階のバイオリン教室。父母は兄の可能性をまだ諦めていなかった。そのついでに私も通わせられていたのである。
兄はマイペースである。まったくその気は無く、早くに母は諦めていたようだった。なのにイヤイヤやっていた私に「才能がある」と先生が言ったようである。それでしばらく通わさせられたのである。迷惑な私の暗黒時代だった。何故か幼稚園の制服のベレー帽を強制的に被せられて、雰囲気だけはよそ行きの顔で母と兄の後をついて行ったのを憶えている。
区分所有者である父も時々顔を見せた。その日はいつも機嫌よくバイオリン教室の並びにあったトンカツ屋に寄って「好きな物を頼め」と言われたのを憶えている。兄はいつもの如く、メニューで一番高額なヒレカツ定食だった。私はハンバーグ定食、その頃から控えめな性格は続いている。
店のハンバーグは家で食べたマルシンハンバーグとは違う食べ物だった。焼けた鉄板に載せられ出てきたふっくらふくれたハンバーグには口にしたことの無いソースがかかっていた。今思えばそれがデミグラスソース、生れて初めて食べた洋食の味だった。付いてる赤だしも濃く美味く、母の作る赤だしと同じものとは思えなかった。この時から愛知三河の赤だしは私の脳に住みついている。
当時の私の外食の記憶は多くない。父母と兄との四人での外食の記憶は少ない。まだどこの家庭でも外食ってのは当たり前の日常にはなっていなかったのであろう。
生まれて初めて食べたハンバーグの美味さを憶えている人間って少なくないんじゃないかと思う。でも、美味さの記憶ってのはその時の空気が関係するように思う。
そんな記憶が残っているこの路地裏には60年近く立ち寄ったことが無かった。なんだか懐かしく寄ってみたが、すべては遠い遠い昔の記憶になってしまっていた。トンカツ屋の名前も憶えているが検索しても豊橋のどこにも無い、バイオリンを抱えて狭い階段を二階に上がったあの楽器屋も無い。すべては私の記憶にしか残っていないのである。それももうしばらくすれば消えて無くなってしまう。すべては方丈記の世界である。
路地裏にはこんな記憶が多く残っているのであろう。多くの人達の多くの記憶がパッチワークのようにへばりつき、そこにまたパッチワークが重なり上書きされる。思い出す人によってその模様は違うのである。しばらく佇み私だけの路地裏を後にして、夕の新幹線に乗り込んだのである。