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阿倍野の飲み屋のものがたり その1    (鶏皮ポン酢編)

夕方五時開店、開店直後から割と忙しい店だった。
この時間帯はだいたい決まった方々だった。
自転車で乗り付けてくれる防災工事会社の社長がだいたい一番乗りだ。
美味い酒を飲むために堺市から自宅近くの私の店まで来てくれた。
地元の貸しビルのオーナーはいつもパチンコの帰り、毎回「三万負けた、五万負けた」と私の店の売り上げもしくはそれ以上のことを言ってまずはビールを乾いた喉に流し込む。
難波の百貨店にお勤めの品の良い私と同じ歳の独身女性は非番の時、この時間に出て来てくれた。
一見のお客さんも時々入ってきてくれた。
飲み屋の商売ずれした感じの無い私の顔が外から見えたから、と言って入ってくるお客さんも少なくなかった。
お一人の間は私が相手をするが、たいてい馴染みのいつものメンバーがやって来る。
そこで私の出番は終わり、残った仕込みに手を動かす。

L字のカウンターと壁に据え付けの小さなテーブルだけの10人も入ればいっぱいになってしまう立ち飲み屋だった。
一人でやるにはそれくらいがちょうどいいのである。
この感染症対策に支配されてる今では信じられない、カウンター越しでの私とお客さん、肩を触れ合いながらカウンターでのお客さん同士のやり取りで一人でいらっしゃるお客さんも居場所が出来て、和気あいあいと話し、楽しく酔って帰っていただけるのであった。

酒は酔うのが目的である。酒に飲まれては酒に申し訳ない。
酒は一日の労働に対する自身への褒美であり、固まった脳を解きほぐす薬なのである。

週に何度か足を運んでいただいた美容師の方がいた。堺で店を経営され、自宅に帰る途中に寄ってくれた。
その方がお好きな一品がタイトル画像の『鶏皮ポン酢漬け』であった。
私が学生時代に一年間アルバイトした、東京は江古田の焼き鳥屋のオヤジのオリジナルだった。
たぶんこうだろうと思って作ったポン酢漬けだった。  

いつも「ダブルで」と注文をいただいた。
ここの鶏皮が一番美味いと言って食べてくれた。
そして、飲んでくれた。

基本的に私は無口である。
自分から話しかける時はよっぽどである。
その美容師さんも無口であった。
ある日「宮さん、合気道教えてくれる?」と言う。
聞けば奥さんとお嬢さんに習わせたいと言う。
店には当時私が店のカウンターで書いた手書きの案内が貼ってあった。
次の稽古日に親子で体験稽古に来てくれた。
子どものために始めるお母さんがほとんどである。そして進学などの時期が来れば子どもとともにやめていく。
しかし、このお母さんは自身に火が着いて、はや三年、今月中に初段の審査を予定している。
私からしたらうれしい限りである。

流行り病でほとんどの会員さんは休会中、稽古はほぼプライベートレッスンに近い形で続けている。
もちろんこのお母さんは熱心に稽古されている。

もちろん、みな流行り病は怖いだろう。
でも、それ以上に先の見えない不安を抱え日々を生きることはもっと怖い。
稽古で汗をかき、無心になって気持ちをリセットして清々しい顔をして胸を張って帰っていく。

買い出しに行って仕込みをし、開店前に掃除をし、のれんを出して店を開ける、酒を売って、料理を出して、片づけて閉店する。
そして、週二回、稽古をする。
営業時代と違うそんな単調な日々の繰り返しが好きであった。

合気道を喧嘩の道具くらいにしか考えてない時期もあった。
大好きであった師範に先立たれ、残された言葉に私の行う合気道を考えさせられた。
「道場が全てではない、これから生きるすべてを合気道だと思え」
思えば店が道場で、お客さんが稽古相手だったのである。
素晴らしい道場で素晴らしい稽古が出来た夢の日々だったのである。



余りに個性的な私の自筆のポスターを哀れに思い、こんなことをご商売にされている方が作り直してくれました。
その方も私たちとともに稽古をされています。

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