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LL(ロングロング)長屋の日常、ハルとイフの日々
現在からまだそう遠くはない未来、日本のある地方都市での日常である。
LL長屋はループ線上を24時間止まることなく走り続ける回るアパートである。破壊された環境下、世界の居住区域は非常に限られていた。そこで始まったのは居住可能な限られた地域での地上の高層化と地下で複層化された居住空間の超高度利用だったのである。地上を走るループラインの高架を高層化させ商業区域と居住区域に分け、それでも足らぬ部分はその上を走る列車の2階部分を居住エリアに変えたのである。しかも1週20㎞のループライン一杯に車両をつなぎ並べて本当のループラインにしたのである。
このループラインにはさまざまな人たちの生活があった。
さまざまな人生があったのである。
この時代になっても、時間だけは誰にでも平等だった。ただ、時間をありがたく感じる人間は極めて少なかった。時間に対する概念は変わったと言ってもよかったのかも知れない。AIとロボットが世の仕事という仕事を支配する時代で時間は持て余すばかりの苦痛の種でしかなかった。
ハルは早起きである。毎朝東の生駱山から昇る朝日にLL長屋の車窓から目をやり、今日一日の幸せを祈るのである。そして、キツネ色に焼いたトーストを1枚、冷たいままの牛乳とともに食するのである。焼いた食パンを齧ることでハルの脳に考えることを始めるスイッチを入れ、冷たいままの牛乳を飲めることはその日のハルの健康のバロメーターとなる。自身の健康に感謝してその日一日をスタートするのであった。
ハルは古い女である。ただじっとしていることは無かった。インターネットテレビのスイッチを入れれば現れる、その人間が好むチャンネルを日がな一日眺めて過ごすLL長屋の他の連中のような生活を送ることは無かった。今はまた編み物なのである。いつも決まった時間、午前8時を過ぎる頃、小坂駅に到着する。かつての大都市小阪はその半分以上は生活不能エリアとなっていた。ハルは若い頃小阪駅近くで働いていた。老舗の有名ホテルの隣のビルで長く設計事務所の事務をしていた。街を創る、人間が生活する空間を創り出すことに夢を持った多くの男たちが朝早くから夜遅くまで働く活気ある空間だった。そんな中で男たちのサポートをしながらの事務仕事にハルは生きがいを感じ、男たちはハルを大事にした。仕事を終え、遅い時間から小阪の繁華街に繰り出したあの頃をハルは時々懐かしく思い出すのであった。ハルの亡夫はそこにいた営業マンだった。
そんなことを思い出す小阪駅あたりでいつもイフはやって来た。
イフは為政者が派遣する高機能看護アンドロイドである。
アクシデント無く順調に、イフの居住者バイタルチェックの巡回が進んでいるというということであった。
「ハルサン、オハヨウゴザイマス。今日ノオ目覚メハイカガデショウカ」
「イフちゃん、おはよう。いつもと同じ。悪い所なんてどこにもないわ」
イフはハルの顔を覗き込むようにしてバイタルチェックを行った。それは瞬時に終わる作業であるが、最近その時間が長くなったようにハルは感じていた。
「イフちゃん、最近何か変わったことでもあるの?」
高機能AI搭載のイフに躊躇やためらい、間を置くことなど無いはずであるのだが、一瞬の間をハルは見逃していなかった。
「イエ、ナニモアリマセン」
実は、イフは自身の変調を感じていた。以前とは違う何かを感じていた。
そしてイフにはハルが分からぬことを察知していた。このLL長屋を担当するイフの他にもHaw(ハウ)※1が管理するAIアンドロイドはたくさん存在した。彼等彼女等の仕事は表面上は健康促進のためのバイタルチェックであったが、本来のミッションは国の人口数の管理だったのである。イフ達の存在は人口の増減をプラマイゼロを目標に目指す為政者の目的を果たすための道具だったのである。
決して余計なことは言ってはならない、言わないようにプログラムされたイフであったが、アンドロイドたちにありえない、もどかしさを感じていたのである。
そのもどかしさをイフは何なのか理解できず苦しんでいたのである。ハルの前に来るといつも悩んでいたのである。
もちろんイフには『もどかしさ』も『苦しさ』も『悩み』もプログラムされていない。決して触れることが無いはずの『心』の動きを感じてしまっていたのであった。でも、それに気づくのにはまだ時間がかかる。イフがこれから学ぶ『葛藤』もハルを通じて触れていくのである。
「イフちゃん、ちょっと、これあげるわ」
ハルはそう言い、用意していたマフラーをイフの首に巻いた。
イフはまた「Haw(ハウ)ニ認メラレマセン」と言いつつ、途中で言葉を止めた。
「アリガトウゴザイマス」そう言ったのである。
そして、言葉に詰まったイフはハルの枕元にあった本を指さした。ハルが手元から離したことのなかったオー・ヘンリーの『最後の一葉』だった。
「よかったら貸してあげるわ」ハルが差し出すと、イフはまた「アリガトウゴザイマス」と言いながらパラパラとページをめくって一瞬で読んでしまった。
そしてまた「アリガトウゴザイマス」と言葉を残してイフは部屋を出て行こうとした。
「イフちゃん、また明日ね」
時間は人には平等であるが、アンドロイドに時間はあるのであろうか。
イフが心を持ってしまったのには原因がある。もちろんハルの存在である。
プログラムをアンドロイド自ら修正したり、人間のシナプスのように柔軟性があるものなのか著者は知らない。ただ期待するのはAI搭載アンドロイドの未知なる創造性である。
ハルとイフには人間とアンドロイドという違いがあり、人間はアンドロイドをアンドロイドとして意識し、アンドロイドは人間を人間として意識する。
でもその垣根が無くなってしまったら、どんな世界が待ち受けているのであろう。
ハルのちょっとした行いがイフを変えた。その行いが何なのかはこの先に続く。そして誰にでも平等な時間が二人の運命を育てていくのである。
『労働を必要とせぬこの世界で人々が何故生きなければならないのかを考えることが為政者たちにとって最も危険なことであった。』
本当に平和な世界ってのはどんなところなんだろう。
※ここから続いています。
言葉の補足
※1 Hawは厚生省(Ministry of Health and Welfare)のことである。かつてあった厚生労働省は、労働の無くなったこの世では再び厚生省に戻ったが、誰も厚生省という昭和に生まれた呼び名を呼ばなかった。