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台湾の母の味

「ひでき、ひでき〜!」
早く起きろと母が言っている。でも変である。中年女に声変わりなんてあるんだろうか。いつもの声と違う。そんなことを考えながら朝の空気の違いを感じていた。
そして気がついた。私は黄絢絢のベッドに寝ていたのである。
「ああ、朝はどこにいても同じだな」そう独り言ち陽の入らない朝の薄ぼんやりした漆喰の天井の経年でできたであろうシミをしばらく見つめていた。

もう50年も近く前のことである。高校卒業後就職を目指していた。
障害を持つ兄がいて、中学まではいつも一つ上の兄と通学した。兄の担任からの苦情受付係はわたしだった。そんなのも今で言うヤングケアラーになるのであろうか。兄は好んで障害を持ってこの世に出てきたわけじゃない。私にとっては当たり前の兄であり、他の障害者のことも、たまたまそんな状態に今を生きねばならぬが、タイミングの違いで矢は私に刺さることもあったんじゃないかとよく思っていた。だから兄を毛嫌いする教師たちを私は軽蔑し、受けた苦情は『王様の耳はロバの耳』方式で私の帰り道にいつも吐き出し母に伝えることは無かった。でも王様の耳はロバの耳なのである。いつしか苦情は母の耳にもとに届き私が聞き流していたことが伝わっていった。

そんな母は私には大学までは行かせたいと考えていたようである。
その頃父は出稼ぎでインドネシアの山奥でダム建設の現場にいた。取りようにも当時は簡単に連絡の取れる場所じゃなかった。母は一人で悩み、どうやって絢絢に連絡を取ったのか分からないが、卒業したら調理師を目指すと言った私を台北の黄家でしばらく預かってもらう作戦を立てていたのである。

当時は桃園空港ではなく松山空港が台北の玄関だった。夜到着の便だった。小雨降る空港に絢絢は私の傘も持ち待ち構えてくれていた。黄家の自宅は松山空港から歩いて行けた。湿った夜の台北の空気に今まで感じたことのない初めての異国を私は感じていた。絢絢はよくしゃべる。私に「で、ひできはどう思う?」必ず私に考えさせて私に意見を述べさせるのである。
黄家家族は一つのビルにお母さま、絢絢、兄家族、弟家族の4つのフロアーで生活していた。そこでも深夜まで絢絢の質問攻めは続いた。

その頃私は中華のコックになりたかったのである。台北でのひと月近い滞在中、いろんな経験をさせてもらい、いろんな場所、料理屋に連れて行ってもらった。朝の露店での食事が懐かしい。出勤途中に寄ることもあると言っていた。せわしない時間にかき込める麺類や丼物であった。絢絢は生涯を独身で通し、台大病院の看護師だった。100歳過ぎまでお元気だったお母さまがいたから、料理はほとんどしなかったようである。でも、お母さまの面倒を最後まで看て、淡水の老人ホームでともに生活した『70過ぎの孝行娘』だったのである。

とにかくいろんなものを食べさせてもらった。そんな中で時々思い出すのが絢絢が作ってくれた豚脂ご飯である。細かく刻んだ豚の脂身を中華鍋で脂身が濃い茶色になるまで炒め、冷まして固められたラードである。それを熱いご飯にのせて、醤油と魔法の粉(当時も日本の味の素があったと思う)をかけてかき混ぜて食べるのである。台湾の朝の忙しいお母さんが子どもに食べさせるご飯だと聞かされた。

どこにいても同じなのである。朝は食わねばならない。仕事に行く。学校に行く。元気の源はまずは朝飯であろう。私の母と一緒で、忙しい朝の時間のなかで絢絢は私のために時間を割いてラードご飯を用意してくれたのである。子を持つことのなかった絢絢にとってひと月の間、私は息子でいた。そしてそれからずっと息子は続いている。
共に生活する。ともに生きることは同じ人間であるから、活動の基本は同じである。だからその一番の共通である『食』を介することが互いを理解するには一番なのかも知れない。

時々思い出して豚脂ご飯を作る。熱々の豚脂ご飯はただただ美味い。でもあの時の空気ではない。目の前に台湾の母絢絢はいない。だから同じ味にはならないのである。
絢絢も100歳を生きてしまった。そろそろまた顔を見に行かねばならない。
その時には美味かった豚脂ご飯の話をしてこなければならないと思っている。


冒頭写真は記事とは関係ありません。
放置竹林整備のNPO事務所をお借りする京都西山大原野のお母さんから頂いた大根の葉のパスタです。たぶん、10年かけても大阪のスーパーでは調達できない量の大根の葉を食べました。これもそのうち京都の母の味になっていくのかなと思っています。


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